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意思を穿つ意志

はい、やります!できます!

ものすごく聞こえはいい、もちろん心地よい返事を好まない人なんていないだろう。
でもその返事を本当に実行に移すことのできる人はこの世にどれくらいいるのだろうか。(内容にもよるが)

自分は扱うことが簡単なイエスマンである。考えれば決断は鈍るばかりだし、人に嫌われたくない。だからこそ「はい!やります!」と言ってしまう。酷く愚かで滑稽だ。そのあと後悔に気づいてやっぱりやめてしまおうかなど考えて気持ちが沈んでいく。

イエスマンが悪いことではないし、むしろ人から頼られる気持ちのいい存在なので、行動に自信と責任、意志があればきっと良い存在だろう。(仕事を投げられる上で)
自分はイエスマンの仮面を被って「道化」を演じてみた、思った以上に心地よく、気楽なものである。そしたらいつのまにか仮面の外し方を忘れた。その上仮面が蒸れて息苦しい。

今になって後悔している。過去に後悔したってどうしようもならないのに。

できもしない目標を立てては「できます!」
そんな責任負いたくないのに「引き受けます!」
続ける意思なんてないはずなのにその場の雰囲気に当てられ「続けます!」

また達成できなかった、上手くみんなを導けなかった、また失敗したもうやめたい。

そうして言ったことが重みになって潰されていく。どんどん深みに嵌っていく、苦しみが続いていく。

この仮面を外して深呼吸するにはどうするのがいいのか。
なぜ意志の無いイエスマンになるのか。
なぜ考えより先に返事が出てきてしまうのか。

それはおそらく潜在的に嫌われることを恐れていると仮定している。
空気を読んで、表情を窺って、相手の一歩先を行く、それがイエスマンの世の立ち回りなのだと思う。だから、その一歩は非常に単調で釣られやすい、そういう風に生きている。だから気楽で心地よい、そして考えることもないので意志が弱い。

ならどうするべきなのだろう?
空返事を送らないように基準を設けていきたい。
それはイエスノーの極端なものではなく、層になった自己の基準。その基準を下地として、断る理由、やるべき理由を明確にする、そして瞬時に即答できるようになる。この過程こそ意志の形成だと考えた。
いわば自己分析の賜物、就活の軸みたいなものだ。

だってどうしても叶えたい夢は誰に何を言われようと、反対されようと理由を明確に答えて、諦めずに走るものでしょう。それと意志は同じものだ。

しかし、すぐに確固たる意志を形成するのはほぼ不可能に等しい、常に考えて、意見を持って、それを血肉として層となす。生きていた何月が長いなら尚更だと思う。それでもやらなければいつまでも「道化」を続ける他人を笑わすことのしかできないピエロだ。

自分は不幸でいいのか?
他人の意思を、自分の仮面を「道化」を穿つまで自分の意志を研ぎ澄まし続ける。

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