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いつ大人になったのだろう?

「もう大人なんだからさ。」
こんな枕詞を付けられて、講釈を垂れられる日々もううんざりだ。
でも実際いつ大人になったか不明なのである。

果たして、大人になるというのはいつ、どのタイミングなのか。
お金が稼げて1人で暮らせるようになるタイミングか?それとも生命的に生殖ができるようになったタイミングか?それとも政府が決めた「成人式」という通過儀礼を通してのタイミングか?

いずれにせよ個人感の尺度があり、人によって大人になったという感覚も変わってくるだろう。

太宰治の『女生徒』にはこんな一文がある。

肉体が、自分の気持と関係なく、ひとりでに成長して行くのだが、たまらなく困惑する。めきめきと大人になってしまう自分を、どうすることもできなく、悲しい。

『女生徒』より


そうだ、自分は悲しいのだ。

自分の肉体に1日で現れる成長というものがない。
日々を過ごして行くうちに勝手に背が伸びて、声が変わって、顔つきもゴツくなる。自分はその日々の細やかな変化に気づけない。
せいぜい久しぶりに会った人が「ちょっと見ない間に変わったねぇ」なんて言われてくらいだろうか。やっと気づけるのは。

精神面ではいつまでも子供でいたく、誰からもお前は大人だと言われていないのに、誰かが大人のように立ち振る舞い「それ」に釣られてみんな大人になって行く、大人になりきれない人は、ドロップアウトするか、他人から指を指されて笑われるかのどっちかだ。

だから、大好きなおもちゃがいつしか好きではなくなって、グロテスクなゲームに憧れが持てなくなって、性的な話にすら興奮と感動を覚えられなくなって言ってしまう。

肉体以上に精神が大人になるということも悲しい物だ。

いつしか子供に帰ることをを夢見て、結局目の前の進路を進んでもう振り返れば大人なのである。

早く大人になりたいなぁ、お金は自由に使えて、
門限も気にせず遊び放題で、ゲームの時間を縛ってくる親もいない!なんて言ってる自分の子供時代に恥ずかしさを感じてくる。

本当はね、建前やるべきこと税金将来労働に押し潰されてるよなんて言えるわけないじゃいか!
言ったところでふーんそれで?なんて言わらて終わってしまうだろう。

結局のところ自分は止められない成長いやもしくは成熟に対してどんな心意気でいるかに賭けているのかもしれない。

ずっと子供でいたいと指を咥えて停滞するか。
大人であると言い聞かせて、心の中にいる子供を封印して生きるか。

どちらにしろ酷な決断である。

だからこそ、自分は子供でいたいという気持ちは大切にしたい。大人でありつつも子供である自分がとても良い状態で、それが趣味などに反映されているのは非常に喜ばしい限りである。
その自分を享受してくれる人、友人に感謝しながら日々大人になっていきたい。



~引用したヤツ~

青空文庫で読めるので暇つぶしに読んでみて。

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