記事を書く(生きる)ということにずっと気負ってきた。。。
皆さん、こんばんは。
毎日、暑いですが、お体はいかがでしょうか?
私はやはり、持病の膠原病の薬・ステロイド減薬の影響で、体調に波があります。
どうしても、具合が良い日と悪い日とがありますね。
悪いといっても、想定範囲内の症状ですので、ご心配なさらないで下さいね。
今日は、久しぶりに、心情記事を書いてみたいと思います。
3週間ばかり、記事更新は完全休みにしながら、色々と思うことがありました。
書かなくなったことで楽になった自分、書かなくなったことで書きたい欲望にかられた自分とが、混在しているような感じでした。
きっと、私は書くことが好きなのでしょう、書くことで精神統一をはかっているような感覚があるからです。
しかし、書くことは、私にとっては、ものすごくエネルギーが要るものでした。
なぜなら、自分の思い(魂)を込めて、書きたい(書こうとしてしまう)自分がいたからです。
それは。。。少しばかり疲れます。
ずっと、そんな書き方をしていると、書くことが嫌いとまでは言いませんが、義務のように感じてくるからです。
書くということは、本来は、自分の中にあるものを外に出す、いわゆる、表現の一つということ、シンプルに、ただそれだけの意味だと思うのです。
そこに、私は、書くことを生きることと定義しすぎていました。
書くことが好き=生きること、そういう解釈自体は悪いとは思いません。
しかし、書くことが好き=生きること=人目を気にすることになってきていました。
私は、自分の心情をひたすら書きなぐるタイプの書き手です。
そういうタイプだと、どうしても赤裸々に書き綴ってしまうことになるので、書いた後、羞恥心のようなものが芽生えてきます。
それを気にしすぎてしまうと、書くことにストップがかかってしまったり、逆にエネルギーが放出されすぎて、熱くなりすぎた記事を書くことになってしまったりします。
そんな私の記事を見て、なんて不安定な人だろうと思った方が、これまでたくさんいらっしゃったのではないでしょうか。。。
そういったことを気にしていた私は、書くことがよくわからなくなってきていました。
書くということに気負いがありすぎたのだろうと思います。
私は過去記事にも書きましたが、生き方も能力も不器用(能力が低い)な人間なので、劣等感の塊でしかありません。
そんな私が、唯一、時々褒めて頂けたのが、書くことでした。
だから、私は書くことにこだわり続けるしか、それしか自分が生きている感覚を実感する手段がないとさえ思っていた感じです。
今回、書くことを休んだことで、その思い込みを、少しだけ手放せたような気がします。
書きたい時に書く、書きたくない時は書かない、書きたい内容を書く、書きたくない内容は書かない、それでいいんだなって。
当たり前のことが気付けない、そんな不器用(能力が低い)な人間なんです、でもそんな自分でもいいのだろう、そんな自分のままでいいのじゃないか、そう、少しずつ、思えるようになってきたのかな?ほんの少しずつですがね。
あっ、エッセイ風(心情的)記事を書いた文末には、これからは、
「さて、今日も生きるとしよう。」
を入れてみることにしました。
下のつぶやき記事にコメントを下さった、月殿亭さんからのご提案です。
「この言葉(さて今日も生きるとしよう)は、キューブさんの真実の声だと気付きました。」
と言って下さいました。
なので、これからは、エッセイ風(心情的)記事を書いた文末には、この言葉を使っていきたいと思います。
さて、今日も生きるとしよう。
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