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心ここにあるような、ないような、ぼんやりした日々を過ごしています。

父の緊急入院から、あまりにも状況が目まぐるしく変わりすぎて、思考がやっぱり付いていけてない感じです。
人工呼吸器なんて、想像もしてなかった私が甘かったのかな?
若干、考えることに拒否反応のようなものが出ているのかもしれません。
昨晩辺りから、頭がぼんやりした感じが続いています。

考えてもどうしようもないことを考えてみたり、考えなければいけないことを考えなかったり、相変わらずの自分のメンタルの弱さを痛感しています。
こういう時、自分のメンタルを強くするって、どうやればできるのだろう?

それって、日頃からの鍛錬なのでしょうかね。
私は自分の性質的に、打たれ弱いのか?打たれ強いのか?よくわからないところがあります。
人からの評価も分かれます。
何を持って、打たれ弱い、打たれ強いって、人は判断しているのでしょう?
不思議です。

だから何?って話ですよね。
正直言って、この記事は、どこへ向かっているのか?わからないで書いています。
思考がグルグルしているということだけを、書きたかったのかもしれませんね。

私は、自分が膠原病(皮膚筋炎)で、命に関わる合併症(間質性肺炎やがんなど)を発症しやすいと宣告された時の方が、もしかしたら落ち着いていたかもしれません。(既に間質性肺炎は発症していました)
自分の時の方が、自分の命の寿命を受け入れたような気がするのです。

父の時は、到底、受け入れ難いものがありました。
助かる可能性があるなら、藁にもすがる、そんな感じでした。
延命治療の考えには、色々な考えの方がいると思うので、延命治療について語るつもりはないのですが、人工呼吸器装着の意思を主治医から求められた時、私の中で迷いはなかったです。

なによりも、父が生きる希望を持っていたので、それに頼るしかないと感じました。
命が助かるのか?助かったとしても以前の父の状態には戻れない可能性が高い、それでも選択しました。
不思議なものです、自分の時は延命治療は要らないと思っていたのに、父の時は絶対、やるべきだと感じていました。

命って、なんなんでしょうね、命の考え方、本当に千差万別なんだなと感じます。
私は父が老いていて、自身も難病の持病ある身で、それなのに、あまりにも延命治療に関する考えが浅かったことに気付かされました。
まったく考えてないとは思ってませんでしたが、実際に直面した時、考えが浅かったことを強く感じました。

生き方、命の終わり方、それをもっと考える必要性を感じています。



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