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私の〈Xday〉~愛犬との別れ~

必ずその日は来る。
出来れば避けて通りたいけど、そうはいかない。
受験や震災、病で余命を宣告された大切な人との別れ・・・。
考えてみれば大なり小なり<X day>とはいくつもあるものです。
その日を迎えるのが怖い、想像が追い付かない程だけど、必ず来るのだから人は出来るだけ準備をします。

私にとっての衝撃的な<X day>は愛犬ナナとの別れの日でした。

もう三頭目になるから、いつか別れが来るのは重々承知で、抜けた乳歯をとっておいたり、写真をいっぱい撮ったり、思い出もいっぱい貯めながら、幸せな年月を過ごしました。

犬種的に13~15歳の平均寿命といわれており、私も15年くらい一緒に居られたらいいなぁ、と思っていました。
12歳半ごろに右目が緑内障になり、13歳半ごろに左目も緑内障になり、両方とも目が見えなくなってからはバギーでお散歩をするように。そしてそこから1年経った14歳8か月の頃に一見てんかんのような痙攣が何度か起きて人(犬)が変わったようになりました。うろうろ徘徊をしては壁に向かって進もうとするなど落ち着かない2ヶ月を経て、14歳と10ヶ月で私の胸に抱かれて逝きました。お医者さんの診断では認知症の症状ではないかとのことでした。
生まれて3ヶ月経た頃に我家に来たから、一緒に暮らしたのは14年と7ヶ月。

十分に、段階的に、順序を経て逝ってくれたと思います。生前大きな病気に掛かることもなく、緑内障も点眼薬で抑えられ、飼い主の私が見た限りでは苦痛というのはなかったと思っています。晩年の2年は夏の後にがくんと落ちる傾向がありましたが、こんなふうに徐々に老いていくのだと受け止め、そのときそのときに必要な対応をし、切ない感じはありつつも決して落ち込むことはありませんでした。

最後の2ヶ月間には「もういつ逝ってもおかしくない」と夫とも話しながら、その時のための心の準備もしていました。何気なく、前に看取った子のアルバムを持ち出してきていつも傍に置いて時折めくってみたり、亡骸はこの霊園に頼もう、お骨は貰わない、など亡き後の段取りを考えたりもしていました。

昨年2023年の大晦日がちょうど49日。

少し月日が経ちましたが、なかなか悲しさから逃れられず苦心しています。少しずつ老い、衰え、命を閉じ始めて行くナナに対して、少々の粗相があろうとももう昔のように「No」と言うこともなく、労わる気持ちばかりで接しました。逝くときは、いつもと違う、と察知できたので抱きかかえ、私の胸の中でその命を閉じてくれました。

つまり、幸福なことに、ナナと過ごした日々、そして別れのとき、私は何ひとつ後悔がないのです。想定外のことも、こんなはずじゃなかったなんていうことも、ああしてあげれば良かった、可哀そうなことをした、など、ひとつも後悔はないのです。

なのに、この悲しい気持ちだけはどうにもならない。この悲しい気持ちの準備はしたくても出来なかった。ナナ亡き後の悲しみだけは想像することを止めていました。いつも傍にいる、振り向けばいつもハウスでのんびり寝てる、ご飯のときには自らやって来る、お菓子を開ける音がすれば飛んでくる、夫の帰宅時には廊下に居座って玄関を見つめてる・・・。文字通り空気のようなナナがいつか居なくなるということに、私は心の片隅で怯え、想像することを避けていたのです。ハウスがもぬけの殻になるなんて考えられなかった。

「天寿を全うしたんだよ」という夫の言葉に、「あの子がそんな凄いことを、イッチョマエなことをするなんて」と言ってはめそめそする自分に呆れるほど。

シンプルに悲しい。
複雑な感情は何もなく、ただただ折に触れてすーっと涙が出て、すっと止む、の繰り返しです。よく歌にもある「傍に居てくれるだけでいい♪」「触れていたい♬」「抱きしめたい♪」「ずっと一緒♬」といった文言をナナの写真に向かって言っている自分がいます。

ナナが逝った11月、Eテレの<みんなのうた>で流れる曲が<大好きな君へ>でした。放心状態で家事をしつつ、「ありきたりなタイトルのラブソングだな」と思いスルーするつもりだったものの、歌詞は意外と耳で捉えるもの。「ん?」。詞はなんと亡くなった犬から飼い主に向けての、犬目線のメッセージだったのです。「泣かないで」というメッセージだったのです。
これが泣かずにいられましょうか!!!

毎晩、ナナとは一緒にベッドで寝ていたので、突然居なくなってしまってから私はユーチューブ無しでは眠れなくなってしまいました。最初の頃は<みんなのうた>の<大好きな君へ>を何回も何回も。少し月日が経った現在では<まんが 日本昔ばなし>をずーっと流したまま眠りにつくという習慣に。

唐突ですが、私は作家の平野啓一郎の作品が好きでよく読んでいます。いずれ全てを読了するつもりでいますが、彼の提言する<分人主義>という考え方に強い共感を覚えています。

Aさんと居るときの<自分>は好き、Bさんと居るときはあまり好きではない<自分>、人は相対する人により異なる自分になるが、どれも<本当の自分>なのだ、という考え方です。違和感、嫌悪感を覚える自分を露出してしまうと、つい「こんなの本当の自分じゃない」と拒みがちですが、それも<本当の自分>の一面である。どうせなら気持ちよく居られる、好きな自分で居られる相手を選べばいいということです。そして平野氏が言うには、好きな人から「あなたが好き」と言われるよりも「あなたと居るときの自分が好き」と言われる方が嬉しい、と。

大切な存在を失ってしまったときの悲しさは、同時にその存在と向き合うときの<自分>を失ってしまった喪失感をも含むものだというのです。失った<自分>を自分が好きであればあるほど、その悲しみは強いといえます。

今回、私は一つの<X day>を経験し、アウトプットできなくなってしまった<自分>のやり場にも困っています。ナナはこの14年7ヶ月の間、他の誰よりもこの私を目撃しています。良いところも悪いところも全て。そして、私はナナの目にどう映ろうが、ナナの目撃してきた<自分>が好きでした。ナナと過ごしているときの<自分>を気に入っていたのです。

「別れの悲しみがあるからペットは飼えない」という人がいます。本当にこんな悲しい思いは二度としたくない、と思ってしまうほど悲しいのですが、私はまたいつかワンちゃんとの共同生活をする心づもりでいます。ワンちゃんとニャンちゃんがいいかな・・・。別れは悲しすぎるけど、共に暮らした日々はとても幸せで素晴らしかったからです。
言葉を話さない動物と向き合い、心を通わせようと耳を澄ます<自分>が好きですし、そう出来たときの幸福感を抱いていたいからです。

長々とお付き合いくださって有難うございます。




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