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香取準教授のオカン前世〈第1話〉

【あらすじ】(※第3話まで)

 気鋭の若手法学者、香取准教授は、幼い頃より繰り返し見る夢があった。
ある日、売れないアイドルグループのライブを見かけたのをきっかけに、それが前世の記憶だと判明する。
 香取の前世は、7人の子供の母親オカンだったのである。
 次々と知れる前世子どもたち。並のアイドル、アリサは双子の片割れ三女ナミ。ダンディな学長の高島は、泣き虫三男坊の三郎。北欧出身力士の穂王山は、双子のもう一方の次女フミ。
 「きっと、他にも転生した子がいるに違いない」香取は、前世の愛児たちを探す決心をする。


【第3話以降のあらすじ】

 思い出したくもない因縁の前世亭主が遂に判明! 
そ の憎たらしい前世亭主と渋々と手を組み、アリサのストーカーを成敗し、穂王山アンチを締め……密かに子供たちの危機を救っていく香取。そんな中でも、次々と前世子どもたちが判明。更には前世舅姑、小姑……と親類縁者、知人友人まで出てくる始末。なのに、七人の子、最後の一人がなかなか見つからない。
 最後の最後、見つかった子は、灯台下暗しも良いところにいた……。


第1話 オカン、覚醒!


 香取春臣は、大江戸大学法学部准教授である。専門は国際法と中国法。弱冠33歳にして、一目置かれる法学者である。
 彼は、シャープな頭脳に銀縁眼鏡が似合うクールなイケメン。裏表なく、勤勉実直な性格。講義は、歯切れ良く、理路整然としてわかりやすい。クールな見た目に反して、学生の面倒見も良い。ゆえに、男女問わず学生たちからは慕われ、教職員にも信頼されていた。 だが、彼には、人に言えない秘密があった。

 それは彼に前世の記憶があることだ。彼は、前世では7人の子を持つ母親オカンであった。

 その日の講義を終えた香取は、時計を見つつ、足早に校門を通り過ぎようとして
「香取先生、今日はもうお帰りですか」
 顔見知りの警備員から声を掛けられた。香取は、夜遅くまで研究室に籠もっていることが多い。彼も人間なので、早く帰る日も休む日もあるが、基本、仕事人間。研究命、学問至上である。
「ええ、今日は用事があって」
 嘘ではない。香取には、午後4時までに秋葉原まで行かねばならないわけがあった。
「ん?」
 門を出たところで、前方に肩を落として歩く男子学生の姿があった。香取の国際法ゼミに所属する3年の田島だ。香取が声を掛けると、振り返った田島の目の下には、隈ができている。
「どうかしたのか」
「実は、親父が倒れて……」
 田島の父親が卒中で倒れて入院した。仕事も辞めざるおえず、今後、介護が必要となる可能性もある。経済的にも苦しく、退学を考えているという。
「弟はまだ中学生ですし、せめて高校は……」
「そうか。でも、諦めるな。学生課で奨学金制度について聞いてみろ。山之内さんが担当だったはずだ。それから原さん、あの人は義父母の介護経験があるから、介護サービス情報に詳しい。俺からも頼んでおくが、二人とも親切だから、きっと相談に乗ってくれる」
 香取は、優秀な頭脳に加えて容姿端麗、温厚な人柄ゆえ、女性受けが良かった。女子学生の密かな憧れでもあり、独身女性教職員の密かな婚活ターゲットでもあり、既婚女性職員の密かな脳内韓流ドラマ風ソープオペラの相手役でもあった。山之内、原の二人もまた同様。ゆえに、香取には親切なのである。
 田島は、香取の励ましに少し元気が出たようで「そうしてみます」と微かな笑顔を見せた。そんな彼の肩を香取は、心からの励ましを込めて優しく叩いた。

 香取は秋葉原に着くと、眼鏡を黒縁に替え、スーツ脱いでチェックのシャツに着替え、今時珍しいチューリップ帽を被った。そして、とあるビルの地下に降りる。
 彼が向かうのは、これから地下から地上へ芽吹こうというアイドルグループ、ツインテールズのライブである。名の通りメンバーの全員がツインテールだ。
 会場で浮かぬよう周囲のドルオタどもと調子を合わせて光る棒切れを振り回し、首を伸ばして壇上でひしめき合っているアイドル少女たちから、あの子を探す。
(いた、いた)
 斉藤アリサ。14歳の中学2年。そこそこ可愛くて、歌もダンスもそこそこ。話によると、成績もそこそこらしい。何もかも平均レベルの少女だが、香取には、宝物に等しい。目に入れても痛くないほど愛おしい。なぜなら、彼女は、香取の娘の一人――正確に言えば、前世での――だった。双子の片割れ、三女のナミだったのである。
(前世では双子で、今世でツインテールなんて出来すぎ……)
 感慨深い香取であった。
 
 香取には、物心つく頃から、抜き打ちテストのように頻々と見る夢があった。
 香取が伏しているせんべい布団を取り囲んで、7人の子供が「母ちゃん、母ちゃん」と香取のことを呼んでいる。べそをかいている子もいる。ああ、自分はまだ幼いこの子たちを残して逝ってしまうのだと切なくなった。この子たちが大人になるまで、独り立ちするまで守ってやりたかった。くやしい、悲しい……。
 そして目が覚める。目覚めると決まって、涙が一つ、ポロリと落ちた。
 それが前世の夢であるとわかったのは、この春のことだ。大学の入学式に出席した日の帰り道であった。初々しい新入生とそれを見守る保護者の暖かな眼差しに、香取も胸が温かくなった。その温もりをまだほんのりと残したまま、香取は帰途についた。
 駅前の大型スーパーを通り掛かったときだ。敷地に植えられた桜は、折しも満開。香取は、風にひらひらと舞って流れていく花びらに見とれ、その先を追う。花びらが流れ着いたのは、店の出入口脇に設けられた簡素なステージ。その上には、学校の制服のような揃いの衣装を着た10人ほどの少女たちがひしめくように立っていた。
「この春、デビューしたばかりのツインテールズの皆さんでーす!」
 蛍光色の安っぽいウィンドブレーカーを着た女性が叫んだ。まばらな観客に向かって、満面の営業スマイルで手を振っている少女たちは皆、幼さの残った顔に同じような化粧を施し、全員ツインテール。誰が誰だかさっぱり区別が付かない。
「デビュー曲の『前世から大好き』をこれから歌って貰いますが……何でもアリサちゃんは、前世じゃないかって夢を見るんですって?」
 アイドルなんぞに興味のない香取は、そのまま通り過ぎようとして
「そうなんです。7人も兄弟がいて」
(7人の兄弟?)
 耳に引っ掛かった。
「お母さんが寝ていて、みんなで、死なないでって言ってて」
 思わず壇上に目を向ける。話しているのは、中学生ぐらいの少女、可愛いと言えば可愛いが、これといった特徴のない凡庸な普通の少女だ。
「お母さん? どんな人?」
「うーん、はっきりしないんだけれど、優しい感じで、悲しそうで……あ、ここにほくろが」
 少女が右目の下を指で突いた。途端に、香取の頭の中で何かが弾けた。

 髪を梳いている女が鏡の中にいた。視界がぼんやりしていて顔立ちまではわからないが、右目の下に泣きぼくろがある。背中に重みとぬくもりを急に感じた。鏡には女の顔の横に、二人の同じ顔の少女が映っている。
 ――母ちゃん。甘えた声で二人は香取おんなを呼んだ。
 ――二人とも姉ちゃんになっても甘えん坊ね。
 鏡の中で母子がふふふと笑った。

(フミ! ナミ!)
 心の中で香取は絶叫した。
 途端に悟った。理解した。あの夢は前世の記憶なのだ。あのアリサという少女は
(ナミ……)
 双子の片割れ、三女のナミだ。どちらがどちらかわからないほど似ている二人だったが、母親ならわかる。
 桜の花びらが舞い散る中で、花びらと同じ桜色の頬をして微笑んでいる少女の姿に涙が出そうになって、慌ててそっぽを向いた。姿も名前も違っているが、後ろ髪を引かれる思いで残していった前世の娘の一人が、今世で元気に歌って踊っている。あまり上手くはないが……。香取の魂がむせび泣いた。

 以来、香取は、ツインテールズの情報を集め、暇を見つけてはライブに通っている。そうして、前世の娘であるナミ――アリサを影ながら見守っているのだ。

 パフォーマンスが終了すると握手会だ。もちろん、香取はアリサの前に立つ。並ぶと言うほど人はいない。何しろ人気順位12人中9位だ。それが前世母ちゃんには切ない。
 アリサの前に並ぶ4人は、全員が常連。香取の後に並ぶ人物もそうだ。サングラスに黒マスク、黒いパーカー、香取と同じくチューリップ帽だが、これも黒。黒ずくめだ。怪しいことこの上ないが
(きっと、何か正体を隠さねばならぬ事情があるのだろう)
 我が身を鑑み、同情と共感を覚える香取であった。
「わぁ、また来てくれたんですね。お名前、聞いても良いですか」
 アリサは、数少ない自分推しの香取を記憶している。嬉しいが、まずい。正体を知られてはならない。
「……ハルって呼んでください」
 とっさに誤魔化した。
「ハルさん。また来て下さいね」
 容姿は飛び抜けて良いわけではないが、可愛い部類だし、中学生ながら、きちんと敬語も使える。気立ても良い。なのに、なぜ人気が今ひとつなのか。母香取は、フミ――アリサが不憫だ。だが、人気があればあるで、母香取は心配になるだろう。親とはそういうものだ。
「……クロって呼んでください」
 香取の後に並んでいた黒ずくめの人物が、香取と同じくアリサに名前を問われ答えたのが聞こえた。
(クロ?)
 その呼び名にある人物を思い出し、不快感につい眉根を寄せる香取。
(いや、よくある呼び名だ。アレと一緒にしてはいかん。失礼も甚だしい)
 香取は軽く頭を振って、その人物アレの影を振り払った。

 地下のライブ会場から地上に出たところで、香取は若い男にぶつかり、アリサのサイン入り団扇を取り落とした。この建物は見通しが悪く、特に地下からの出入り口が薄暗くてわかりにくい。
「すみません」
 男が香取の落とした団扇を拾って手渡した。変装中の香取は、男と目を合わせないようにして礼を言う。
 彼らはそれぞれ別方向へ歩き出して数歩……
(あれ? どっかで見た顔だったような?)
 と香取は思った。
(あれ? 今の人、香取先生に似てなかったか?)
 と男は思った。
 男が後を振り返ったとき、香取似の人物は、駅前のショッピングモールに入っていくところであった。
「まさかな」
 彼の出て来た建物は、地下アイドルグループのライブ会場だ。勘違いだろう。男は、そのまま道を渡り、ショッピングモール向かいの友人との待ち合わせ場所に立った。
「すまん、遅くなった」
 ほどなくしてやって来た友人が
「ん? あれ、香取じゃん」
 ひょいと道向かいを指さした。それは、トイレで変装を解いて、ちょうどショッピングモールから出て来たところの、紛うことなき香取であった。

 翌日から香取に妙な噂が立った。
(おかしい)
 最近、学内を歩いていると、学生も教職員も、香取を見ては声を潜めて囁き合う。
「お早うございます」
 顔見知りの女子職員に挨拶をすると、
「お、お早うございます」
 と引きつった笑顔で返してくる。
(一体、何だというのだ)
 気分が悪い。憤慨しながら給湯室の前を通り掛かると、女子職員たちが噂話に興じていた。
「ねえ、香取准教授」
 自分の名前が耳に飛び込んできた。思わず物陰に身を潜める香取。
「ロリコンかもって話」
「ええっ、嘘」
「何でも、地下アイドルのライブに出入りしてるって。推しは中学生アイドルって話」
「あ、だから、まだ結婚しないんだ。っうか、できない?」
「ロリコンかぁ。それじゃあ、大人の女は太刀打ちできないじゃないの」
(そういうわけか)
 真相を知った香取は憤慨する。一体、誰がそんな根も葉もない噂を……。
(あっ!)
 ツインテールズのライブだ。アリサに関して、すっかり母親視線であった香取は失念していた。ローティーンアイドルのライブに足繁く通う成人男性には、良識あるドルオタであっても、無責任で下世話な世間は、ロリコンのレッテルを貼りたがる。
 どこかで誰か顔見知りに見られたのだろうか。完璧に変装していたつもりだったが……。
(当面、ライブ通いは控えた方が良いだろうな)
 せっかく巡り会えた前世の娘に会えないのは切ないが、我慢せねばなるまい。香取は涙ぐみそうになった。

 人の噂は75日というが、香取のロリコン疑惑は、一月も経たずに思わぬことから消滅した。

 その日、香取は大学の教職員食堂で昼食をとっていた。ここは研究室にも近く、栄養バランスの良い食事がとれる。教室や講義室に近いバイキング式の学食も、栄養や量の調整ができるからよく利用する。学外の洒落たカフェやダイニング、レストランなどにはめったに行かない。時間も無駄だし、見てくれに金をかけるなら本や資料を買う。あと、ツインテールズ――アリサのグッズを買う。
「香取さん、ご一緒していいですかな」
 学長の高島だ。
「学長。ええ、もちろんです」
 高島は60代後半、シルバーグレーのダンディな男だ。教養に溢れ、朗らかで、学内でも学外でも人望が厚い。香取も、ああいう年の取り方をしたいと尊敬する人物である。
「お、Aランチも旨そうだな」
「学長はCランチですか」
「デザートの杏仁豆腐に惹かれてね」
 頭をかきながら、照れくさそうに笑う。完璧な人物は近寄りがたいものだが、高島のこういうところが女子学生たちに「学長、結構、可愛いよね」と親しまれ、愛される所以である。
 心理学の杉田教授が空席を探してキョロキョロしているのが目に入った。香取と高島は、手招きして香取の隣の席をすすめる。
「今日は混んでますね」
 アラフィフの杉田は、丸顔で化粧も薄く、お母さんというイメージがする。実際、娘が2人いる。

「そうだ。杉田先生、心理学者ならわかりますかね。先日、妙な夢を見ましてね」
 夢という言葉に、香取はギクリとする。
「くたびれた布団に寝ている女性がいて、それを子供たちが囲んでいる。自分もその子供の一人で『母ちゃん、母ちゃん』って女性に取りすがって泣いているんですよ。ものすごく悲しくて、はっとして目を覚ましたら、何と頬が濡れていて。泣いていたんですな」
 似ている。自分が見ている、アリサも見ている夢と似ている。
「あまりにリアルで気になって……どういう心理が働いてるんですかね」
「何か、悲しいドラマとか小説とか見ましたか? 母子ものとか」
「いや。そういう思い当たる節がまったくないんですよ」
「……子供って何人ぐらいいたんですか」
 香取は恐る恐る尋ねる。高島は、指を折って数え
「7人かな」
「その女性ってどんな人です?」
「どんなって……顔ははっきりわからないんですが……ああ、『ごめんね』って小さい声で言ってましたね。その声が悲しげで」
 情景を思い出したのか、高島が顔を少し曇らせて、それから
「そうそう、泣きぼくろがありましたね。右目の下に」
「!」
 香取は驚愕した。間違いない。高島学長は、前世の子供のうちの一人だ。一体、誰だろう。
 そこで、香取の頭の中にフラッシュバックが起こった。

 自分が横たわる布団に取りすがって、顔を涙と鼻水でぐじゃぐじゃにした三男の三郎が「母ちゃん、やだやだ」と叫んでいる。
 三郎は泣き虫だった。気弱でさみしがり屋で、なかなか乳離れしなかった。弟妹が生まれて、母親がそちらに手を取られてしまうと、赤ん坊返りをしてしまった。「母ちゃん、抱っこ、抱っこ」「母ちゃんと一緒じゃないと寝ない」などと、以前にも増して甘えたが増し、指しゃぶりも始まった。母親代わりに身の回りの面倒を見てくれている姉たちにも「母ちゃんじゃなきゃ、やだ」と駄々をこねて、困らせた。
 そんなことを思い出した。
(まさか、学長が息子だったなんて。しかも、あの泣き虫三郎……)
 現世のダンディで頼りになる知的な男、高島とは正反対だ。
 杉田教授が高島に何かを話していたが、香取の耳には入らない。幼かった息子がいきなり60を超えたおっさんの姿となって、今世に現れた衝撃が凄すぎた。
(顔中鼻水にしていた甘えん坊の駄々っ子坊主が、シルバーグレーの知性派ダンディー……)
 あまりのギャップに、香取の理性と感情のキャパが処理容量を超え、いや、機能不全を起こしてフリーズ。香取は、平静を装ってそこにいるだけで精一杯であった。

 それからというもの、香取は高島学長の様子が気になって仕方がない。
 学長の姿を見かけると、つい目で追ってしまう。廊下であろうと、教職員食堂であろうと、教授会であろうと、学生や教職員たちと会話中であったとしても、そちらに目が向いてしまう。駅のホームの離れた場所で学長を見かけたときは、学長が電車に無事乗り込むまで、じっと見守った。
 大学のトップに立って教職員を堂々と牽引する高島に、前世で洟垂れ泣き虫だった三郎が今世ではこんな立派な大人になって……と密かに誇らしくなり、香取は、ふっと微かに笑みを浮かべてしまう。
 かと思えば、真剣な顔で考え事をしているらしい高島――三郎に、何か悩みでもあるのかと心配になり、香取の顔も曇る。もしかしたら、夜中、悩みに一人で泣いてやしないかと、心が湿っぽくすらなってしまう。
 そんな香取の様子が頻々と学内で見受けられれば、よほどの鈍感でない限り、訝しさを覚えるであろう。
 特に女というものは、表情や行動の変化に敏感である。あっという間に職員、学生問わず、女たちの話題の俎上に香取はのせられた。

 最近、香取は、教職員食堂にいると女子教職員たちの視線が気になって仕方がない。香取をチラ見しては、ひそひそと何かを囁き合っている。居心地が悪い。
 そこで、学食を利用するようにしたが、そこでも学生たちが香取を見ては、ひそひそと囁き合う。一体何のだ。
 その謎は、ひょんなことで解けた。
 香取は、親しい民事訴訟法の長谷川準教授と彼の研究室で雑談中であった。ふと会話が途切れた瞬間、香取は何気なく、最近どうも皆が自分を見て眉をひそめたり、ニヤニヤと笑ったり、様子がおかしい気がすると話した。
「気にしすぎかなと思うのですが」
 途端に長谷川から微笑みが消えた。香取を伺うような、気遣うような微妙な表情で
「言いにくいんですけど、香取先生、あっちじゃないかって」
「あっち?」
 あっちとは何だ。
「その、性的指向が……」
「あ」
 ようやく香取は気付いた。しかし、どこからそんな噂が出たのか。香取はきっぱりと否定する。
「違いますよ。何ですか、そんな根も葉もない」
「いや、その、香取先生は、学長が好きなんじゃないかって」
「はぁ? 勘弁して下さい。冗談にもほどがある。学長のことは尊敬してますよ。好きか嫌いかの二択なら好きです。それは長谷川先生も同じでしょう。一体誰がそんなことを言い出したんです」
「誰がってことじゃなくて、香取先生を見ていて、みんな何となくそうなんじゃないかって」
「どこをどう見たらそうなるんですかね」
 そこで香取は、はたと気付いた。
(あぁ! つい、母親目線になっていたか)
 アリサのときもそうだった。高島に対しては、あの泣き虫三郎が今世ではこんなに立派になって……と感激して誇らしい気持ちになった。同時に、親というものは、子供がいくつになっても子供なのである。転生しても、前世人生最後の感情が強かったがゆえか、母香取には、彼は未だに子供なのである。僅かでも子の――高島の表情が硬かったり、眉間に皺が寄っていたりしようものなら、気になってしまう。どこかで人知れず泣いてやしないかと、つい、心配してしまう。
(ゲイかもと思われてたなんて……)
 ゲイの人にまったく偏見はないが、事実と違う認識をされることが香取という人物には耐えられない。不確実な状況証拠で犯罪容疑をかけられているようなものだ。法の素人たちが、自分たちの趣味嗜好と都合とで、条文の意を歪がませていい加減な解釈をしているかのようだ。許せん。
 高島こどものことは気に掛かるが
(事実無根の噂で、迷惑は掛けられない)
 母親かとりがゲイなんて、あの子に誤解されたくない。
(気を付けよう)
 母心が勝ると、自分が今現在、心も体も成人男性であるという状態を失念してしまうようだ。

 香取の姿を見るなり、木下が「遅いよ!」と文句を言った。
「すまん」
 香取が詫びると
「珍しいね、香取が遅れるなんて」
 才媛の加藤が笑った。
「ちょっと用事があって、間に合うはずだったんだが……」
 今日、香取は久方ぶりにアリサのライブに顔を出した。大学から一端、自宅に帰って、着替えてから出掛けた。サングラスにキャップを被り、パーカーも被る。マスクも掛けた。ライブの後は会場から自宅に戻り、また着替えて、この居酒屋にやって来たのだ。
 分単位で計算して行動したつもりだったが、途中で電車の車両故障があって足止めされた。香取は、万が一を考えて、いつも早めに行動する。だから、少しぐらい電車が遅れても約束の時間に間に合わないということは、まずない。が、今回は最初から非常に時間がタイトだった。
 だが、香取は満足していた。なぜなら扮装を変えたにもかかわらず、アリサは香取だと気付いた。
「ハルさん、来てくれたんですね。ずっと見なかったからどうしたのかなぁって。淋しかったですぅ」
「仕事が立て込んでしまって……」
 仕事が忙しいのは事実だが、体裁良く言い訳したことに、香取の心がチクリと痛んだ。
「そっかぁ。お仕事は大事ですもんね。わたしも、お仕事するようになって、わかってきました。でも、また来てくれて嬉しい」
 屈託なく笑ってくれた。推し握手サービス付きのサイン入り新曲CDも購入できた。
(よく自分のことに気付いてくれた。やっぱり親子なんだ)
 香取は親子の絆を確認できたようで、じーんとした。お親子――あくまで前世でだが。
 
 あまり人付き合いをせぬ香取であったが、大学時代のゼミ同期の集まりには、よく顔を出す。仕事の情報交換の場でもあるからだ。
 本日のメンバーは、出版社に就職した木下と弁護士になった加藤、国家公務員の山本である。もう一人、黒井という某大手有名企業に勤めている者がいるが来ていない。
「クロは、今、会社が大変なことになってるから」
 加藤が声を潜めた。黒井の会社は、粉飾決算が世に知れて、会社の外も内も大騒ぎなのである。
 黒井――黒井蕾には、クロという呼び名の他に、名前をもじった駄洒落のようなあだ名〈ブラックサンダー〉という異名がある。熱狂的ファンがいる某チョコ菓子と同じ名だが、スイーツのように甘い人物ではない。半グレを電光石火で半殺しにしたという真偽不明の激辛い伝説があるような人物だ。
 香取は、黒井が苦手だ。疎ましい。ゆえに、本日、この場に黒井がないことに安堵していた。
(同じクロでも、えらい違いだ)
 逆に、アリサ推し同士のクロには、香取は好意的なシンパシーを感じている。
香取は今日のアリサのライブを思い出した。
(今日は来ていなかったな。どうしたのだろう)
 今日のライブでは、同士クロの姿がなかった。仕事か、体調でも悪いのか。あるいは、香取と同じく身バレの危機とか、やむを得ない事情があったのかもしれない。

 メニューをじっと見つめていた山本がついっと顔を上げた。
 山本省吾は、内閣法制局に務める官僚である。あだ名は〈歩く法文法〉。
 彼の仕事は、各省庁から出された法案の審査――チェックである。用字、用語、表現、配列が的確であるか否かをチェックし、修正する。法律というのは厳格な用語の使い方があって、法律っぽい文章であればいいというわけではない。使い方を誤れば意味が違ってくる。例えば英語でいうandにあたる接続詞も〈及び〉〈並びに〉と二つあり、その二つの使い方が決められている。同列の言葉がいくつ並ぶのか、優先順はどうなっているのか……。接続詞と組み合わせて使う句読点の位置も大切だ。とてつもなく、地味で細かく、まさに重箱の隅を突くような作業である。それを毎日繰り返している。
 よって、オフであっても言葉が
「注文済みの焼き鳥、唐揚げ及びフライドチキン並びに豚の角煮は肉類であるから、他の食材を注文すべきである。ポテトサラダ又はフライドポテトを……」
 という具合になる。
「結局、何言いたいわけ?」
「肉料理は十分だ。別のものを頼もう。ポテトサラダかフライドポテトのどちらかを注文したい、ということだ」
 苛つく木下に香取が翻訳してやる。
「山本、もう少し世間一般の言語も使えるようにならないと、家庭を持つとか、リタイア後の生活が大変だぞ」
 山本にも軽く忠告する。

 香取が取り分けた豆腐チゲを各人に分配しながら、
「熱いから気を付けろ」
 一言、山本に言い添える。すると、木下が
「出たぁ~、香取のお説教」
 呂律の回らない声で絡んできた。ムッとした香取が反論しようとしたところで、山本がコロッケに箸をのばしているのが目に入る。
「芋類ばかり食うな。緑黄色野菜も食べろ」
 注意する。
「案外、香取、世話焼きなんだよね」「本当に世話が焼ける」
 加藤の声に香取の声が被った。
「香取ぃ、お前、オカンみたいやな」
 関西出身の木下は、酔いが回ると関西弁が出る。
「オカンの香取で、オカンとりぃ~、オカンとりーろー、ていくみーほー」
 中学の音楽で習ったカントリーソングを歌い出した。「あー、こりゃ、もうダメね。お開きかな」
 加藤に他2名が力強く首肯した。

第2話
第3話

#創作大賞2024 #漫画原作部門

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