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闇を抜け光へ還らむ999

 松本零士氏が逝去の報を目にした。思わず「えっ!」っと画面に向かって返してしまった。昨年は水島新司氏が召され、自分が子供時代に夢中になったことがどんどんセピア色になり、骨董化していく気がする。やっぱり、ちょっと寂しい。

 『銀河鉄道999』は、あの当時、とても画期的なSF漫画作品であった。下地は当然、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だが、美しい善意と悲しみに彩られた『銀河鉄道の夜』とは違って、『999』のストーリーはもっとリアルで現実の示唆に富んだものであった。少年漫画であったから、冒険や活劇シーンが多かったが、単純に読者にカタルシスを与えてくれるようなものではなかった。余韻があった。
 何よりも私が驚愕したのは、メーテルとその母プロメシュームの関係だ。失礼だが男性が描いた――創作したものとは思えないほど本質を突いていた。
 最後にプロメシュームが「寒い……寒い……」と暖めて欲しいと、まるで母にせがむ子供のようにメーテルに訴えるシーンは秀逸であった。ときとして、母は娘に母親を求めることがある。娘は子でありながら母の母であるという矛盾した立場を求められることがある。もちろん、すべての母娘がそうではない。そういう母娘の関係があるということだ。

 写真は、早朝の電車の車窓である。建物の谷間、空の下方を赤く染めているのは朝焼けである。私は、すっかり朝焼けに向かって走ることが気に入ってしまったようだ。
 今日、たまたま電車とバスの乗り継ぎ旅をしたのだ。「動くこと」を忘れた自分に渇を入れたかった。「動く」ということの、半分は思い出し作業であり、あと半分は、訓練、学習であった。
行ったことのないところへ乗物を、それも地域密着(ちょっと)田舎のローカル線と路線バスを乗り継いで行くというのは、乗り間違ったり、道に迷ったりする可能性がある。どんなに事前に調べても、例えば駅の混雑具合などは、実際に行ってみなければわからないから、スムーズな乗り換えができるかどうかわからない。
 ゆえに、大げさだとは思うがちょっとした冒険なのだ。少なくとも私にとってはそうである。勇気と決心がいる。この程度で随分なチキンハートっぷりであるが。
 だから、鉄郎が――そして鉄郎に先立ち999で旅立った者たちが、行先の怪しげな、だが唯一の希望である999に飛び乗ったときの気持ちがほんの少しはわかるのだ。そして、チキンハートでも999のような旅に憧れるのだ。

 ……そんなことを書いていて、もしかして、学生時代に北京から西域に向かう長距離列車に乗って旅をしたのは、999の物語の憧れが潜在的にあったのかもしれない。NHKの「シルクロード」「マルコ・ポーロの冒険」の影響が大きかったのだが、実は意識せぬところでそれもあったのかもしれない。今になって気付いた。

 ところでタイトルの「らむ」の使い方は合っているのかしらん……。相変わらず焼き付け刃で冷や汗……。

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