3 遠藤周作「沈黙」を読んで

 「沈黙」において、読者に伝えたい主題は大きく分けて3つあると僕は考える。
 ①神を最後まで信じることができなかった弱き者の気持ち。
 ③日本におけるキリスト教は変質してしまった。
 ②神の日本における役割とは何なのか?

 ①神を最後まで信じることのできなかった弱き者の気持ち。
 小説ではキチジローが弱き者の象徴として出てきており、神を最後まで信じて殉教していく強き者と弱き者の対比という構図になっている。
 一方で、神を信じて殉教することが本当に強き者を意味するのか?という疑問が出てくる。これはおそらく、敵に与するくらいなら大義を守って切腹する方が美徳とされていた当時(江戸時代)の価値観を前提としたものである。現代では面従腹背してでも困難をやり過ごし後で逆転する方が英雄扱いされている印象であり、これはコミュニケーション能力が重視されるような社会に変わり価値観が変化したためであると考えられる。
 また、作者自身の体験も投影されているように感じる。作者のエッセイなどを読むと、母親の望むように振る舞うことのできなかった自分に対する後悔の念があるように思われ、「母親の信じる宗教を同じように信じることの出来なかった自分は弱き者である」という信念があったのではないかと推察される。
 ただ弾圧されて光がこれまであたってこなかった者の心情を小説として世に出したという意味では、「沈黙」の役割は大きい。現代では性被害にあった人たちが声を上げる動きが高まっているが、これまで沈黙していた層が声を上げる先駆けとなっているようにも感じる。

 ②日本におけるキリスト教は変質してしまった。
 これはフィレイラの言葉「日本では神を『大日』と訳した」に代表されるように、キリスト教が日本に入ってきた段階で既に異なるニュアンスで伝わってしまっていることがまず挙げられる。また、トモギ村で主人公が体験する宗教的儀式の数々は鎖国により元の状態からかなり変わってしまっている。これは信仰がバレれば刑に処される&正しいことを教えてくれる神父もいないという極限状態の中で信仰の維持を求めた結果であり、当然と言えば当然である。上記2つの理由から、鎖国時代はキリスト教の変質が生じていると考えられる。

 ③神の日本における役割とは何なのか?
 作中では最終的に「キリスト教の神とは痛みに寄り添う同伴者である」という答えを出し、その答えに一部主人公は救われて終わる。踏み絵を踏むという結末や小説「沈黙」自体に、小説が発売された当時、教会がかなり反発したらしい。
 ただしここで疑問に思うのは、遠藤周作先生は全世界のキリスト教を指して「同伴者である神」という概念を押し出したのだろうか?ということである。僕が②で述べたように、日本におけるキリスト教は少なくとも「沈黙」の中では変質したものとして扱われている。少なくとも、この小説で言われている「神」とは「当時の日本のキリスト教の神」であり、世界の神でも現代の神でもないと考えられる。

 ひとまず本稿はここで終了するが、「沈黙」はかなり好きな小説なのでまたどこかで書くかもしれない。

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