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大潟村の思いで(小学生時代)

自分のすきな場所や人や空気(雰囲気)を言葉にしてみようと思います。学校から帰ると時々おつかいを頼まれて、安いものを見つけてくると、おこづかいに100円もらえた。駄菓子屋でビックリマンシール1つか3つ買ってチロルチョコか5円チョコを買う。おまけのシールや占いに一喜一憂したら、近くの公民館でおやつタイム。5人くらいでコンクリートに座ったり、シールを見せあったり、通りかかる人を眺めてみたり、時々じゃんけんして鬼ごっこ。飽きたら、公民館の中のひんやりと暗くおごそかな中を静かに探索したり。あるときは公園にいき、あるときはグランドの遊具であそび、用水路で鯉をさがしたり、ザリガニつりを見てみたり。児童館でミニ四駆で競争したり、トランポリンにボールを転がしてよける遊びをしたり。隣町にガチャガチャをやりに100円持ってでかけたり、ススキ野原でサバイバルゲームやって怒られたり。焼きいも焼いたり、花火合戦で服ちぢれて謝ったり。告白されたり。お金あげたけど、返してもらえって親に言われたり、けんかしたり。からかったり嫌がらせされたり。村の運動会見に行ったり、プラスチックのバッドにテープぐるぐるまきにして野球やったり。だいたいそんなことして過ごしてきました。そこかしこに思いでがあって。場所も人も空気も全部好きだけど、辛いこともたくさんあった。ただ、やっぱり育った場所が一番好きだ。村の魅力ってくくり自体が間違っているのかな。村の中の西地区の中の実家のとなりの電信柱をバスケットゴールに見立てて遊んだ場所で、3つも違う年下の近所の小学生とボールを追いかけた。電信柱のちょっと離れたところから、母親と横で話をしていた近所のおばさんの楽しそうな笑顔に差し込んだ夕焼けが、ボールを照らしてその影を道路にじわりじわりと映していく。明るい長い夕方の優しいやわらかい時間の流れが今でも美しく響いている。そのわずかなような体験が、つもりつもって光る時、同世代か同年代か同級生かその近辺の、今散り散りになって離れている大切な大人たちにいつか伝わる。そうそれこそは、自分が過ごした時間の流れに埋もれた場所にいつまでもずっとずっと、人と一緒に輝いているってやっと1つに言い表せるんじゃないか、と思う。

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