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何故を考えることをやめた僕(たち)

なぜ?空は青いのか?
なぜ?海は塩っぱいのか?
なぜ?心は痛いのか?
なぜ?人は死ぬのか?
なぜ?なぜ?なぜ……?

幼い頃の応えづらい疑問符は立ちどころに潰されて、それはそういうものだと言い聞かせられた。
それを飲み込める子、それを聞き分けられる子がいい子だった。
それが大人にとって都合のいい子だった。(と大人になって思い知るなんて皮肉なことだと思った。)

(周りの大人だけでなく、友人なども含めて)顔色を伺い、空気を読んで、言われたことをしっかりとやる。それが正しいことで、それが正義だと学んでいった。

考えることをやめた僕(ら)は、当然、考えることなどできず。
やりたいことを主張すれば否定された僕らは、意見を言おうとすると、喉がつまり、自然と涙がでる。

僕らは、現代社会における忠実な下僕。歪んだ最高傑作たち。

そんな僕らは大人となり、社会の歯車となった。僕らの得意技は、右向け右で左を向いた奴に、左をいっさい見ずにして、一斉に罵詈雑言,拒否否定の石礫を投下することである。背いたというただ一つの事実だけを頼りに…。
でも、みんな知っている。みんな心の何処かでは分かっている。その投げつけた石は、それができることへの嫉妬と羨望の塊だと。そして、それに気づかないふりをすることはとても楽だということを…。

遅かれ早かれ、丸め込まれ扱いやすいように角が取れた僕らは、その代償として、夢を語らなくなった。自分の限界を、自分の可能性を見極めるのがうまくなった。(気がした。)無難に生きることを宣言すると褒められた。そうすると、ワクワクしないけど、それなりに楽しい人生でいられた。

でも、なんか気持ち悪い。みんなといっしょは心地は良いし、決して悪いことではないけど、むず痒い。酸素が薄い。生きづらい。

あぁ、みんなと一緒だからか。

気づかなければ、考えなければ、なんてことのない吐き気だけど、一旦気になりだしたら、もう無視できない異臭。

石礫の標的になるのは嫌だし、正直1人になるのは怖いけど、これからも石を投げ続けるよりはずっとマシ。いづれその投擲が届かなくなる距離まで駆け抜ければいい。そう思った。


長々と書き綴りましたが、結論としては、いま、生きづらいなら、「なぜ?」とまた考え出してみることからはじめてみるのはいかがでしょうか?というささやかなて提案として、締めくくらせていただきたいと思います。
ここまで読んでくださった方、拙くまとまりのない文章ではありますが、お付き合いいただきありがとうございます。

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