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 初めて草苺の花を見たとき、胸は天衣無縫な子供のように高鳴った。
 白い花びらが若草の山からこっそりと咲いていたからだ。
 新生活にようやく慣れた頃、通学路を通ると、その白い花が何の前触れもなく、赤々と照らす、ルビーのような赤い実に熟していた。
 小さな木の一朶によじ登って、木苺を何粒も摘まみ、片方の手で臙脂色のハンカチの中に入れ、たちまちハンカチは、春の喜びが詰まった花籠に変身した。

 山際から下りると、切り株に座り、木苺を口の中に入れた。
 甘い汁がじんわりと口の中いっぱいに広がり、その食感を思う存分、堪能した。
 この実を潰して、ジャムにしたら美味しいそうだな、と僕は思い立った。

 春の夕間暮れは静寂、という生絹を丹念に、時間の縦糸と歳月の横糸で織っていた。
 銀鏡川から水音が聞こえ、名前を知らない、千鳥が鳴き続ける声もする。
 春なのに冷たい風が吹いたので、くしゃみをした。
 自転車で駆け上がり、強力な力でペダルを漕ぐと奥山からおーい、おーい、と謎を秘めた胴間声が聞こえた。
 猫背になった背筋が急に伸び上がる。
 逢魔が時だ。
 物の怪が跋扈する異界へ、僕は僧侶に虐げられた稚児のように、天狗風によって連れ去れる。
 双眸を本能的に瞑った。
 思考回路は停止し、矯激な声は無神経に、鼓膜に届く。
 おーい、おーい、と耳障りなほどに纏わりつき、鳩尾と鼻柱がくらくらし始め、その相反する、陶然とした声は走馬灯をリフレインするかのように叫喚した。

銀鏡にも咲くミソソバの花。

「ここからは花園でございます」
 耳鳴りを宙で振り払いながら、両輪のペダルを弱めよう、と作用点に抗った。
 ペダルのスピードは一向に変わらず、もっと速いスピードで加速し始め、脳裏には絶対的な恐怖が舞い込み、虎の尾を踏みそうになった。

 このまま、走れば岩肌にぶつかり、身体は大きく道を踏み外してしまうだろう。
 加速したままの自転車の突風を浴びながら、身体の軸を大きく揺さぶり、ハッと瞼を見開いた。

 そこは辺り一面、見張るような花畑が広がっていた。
 畝の隅々までに蓮華草が咲き誇り、極楽浄土に咲き乱れる、沙羅双樹のように時空を培っていた。
 青みがかった濃淡が絶妙に混ざり合う、ミニチュアの蓮の花のような、可憐な野花。
 もう少し、時を許せば、逆鱗に触れられたコンバインによって刈り出され、土くれの一部と吸収させてしまう、白露の花。
 その引き裂かれた葉脈も空の肥しとなり、夏を到来させるための、新しい生命に溶けていく。

 田路の十字路の畦道に、一本の枝垂桜の大木が、金字塔を打ち立てた、大家が晩年、渾身の力を注いで描いた遺作の、果てしない天井画のような構図で生えていた。

 桜の下枝を折ったら、その小枝から血が流れるらしい。
 その死体の主は誰なのか。
 観衆を惑わす美には必ず、猛毒があるように、この枝垂桜も恨み嘆いた、閨怨の女郎のような妖気を纏っていた。

「あなたはまだ妄執に囚われているのですね」
 桜の木の下にいる、その女人は後ろ姿からでも、醜悪な容貌を想像できた。
 まさか、この人があの。
「お母さまはあなたを憎んでいました。己の人生を狂わせた、あなたを途轍もなく恨んでおりました。あなたはまだ己の出自について、ご存じないのですね」

 黄金色の冠を巨大な頭上に携え、不似合いな桜色の打掛、緋色の袴を身に纏った、女人には黒い影がなかった。
 メトロノームが急激にフォルティシモに変調するかのように、心音が聞こえた。
 僕の両足は金縛りのように動じない。
 おーい、おーい、と妖魔の声はさらに音量を上げ、鼓膜に接近した。

「山の精霊たちがあなたを歓迎しているのですよ」
 いいから、目を逸らすんだ。
 その眼と僕の眼は、一抹たりとも繋がってはいけない。
「私のことをあなたは知っているのですね?」
 はらはら、と怪しげに花びらが僕の頬に触れた。
「あの方が……、私をこんな風に」
 かすかに滲む息が止まった。
 山林から吹く、緑風の音も消えた。
「あなたはあの人と同じですもの」

星神楽⑭ 茶色い時代の戦争、桜花|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)


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