「勝手にさ、私の写真載せないでよね」

ママだから話したこと。家の中だから出した表情。自由な振る舞い。

全部全部全部、筒抜けになっていたことを知った、あの日。

世界のどこにも逃げ場がないことを悟った日。

あの日から、私の人生なんて、中身が空っぽの操り人形だ。もしかしたら生まれた時から。生まれる前から。

「私の人生」だと、「私の思い出」だと、「私が受けた愛情」だと、信じて疑わなかったものは「コンテンツ」であり「演出」だったのだと、知った。

有体に言えば「金儲けの手段」。

それでここまで育つことができたのだとママは言う。こんなに贅沢な暮らしができているのは当然じゃないんだって。

知らないよ、そんなの。

要らなかったよ、そんなお金。

私の人生を、返して?

お金で買い戻せないものを、私本人の同意もなしに、勝手にお金に換えないで。

そうして、傷ついて、泣いて、訴えるほど、あの人はまた、新しいコンテンツを手にするんだ。あの人の手から、インターネットを通して、世界へ。

消えてしまいたい、決して消すことができない「私の情報」が刻み込まれたこの世界から。

だけど私が消えることそれ自体が、あの人にとって最上のコンテンツになってしまうから、それも安易に選べない。

買ったアナタも同罪だ。どういう考えでそうしたのかは知らないよ。ただただ、買わないで欲しかった。買えるほどの経済力を持った「大人」なら、買わずに止めて欲しかった。

今すぐにその頭を壁にぶつけてでも、私に関する全てを忘れて欲しい。難しいのは知ってるよ。だったらもう、私が消えるしかないというのも。会ったことすらないのに、執拗に追いかけてこないで。私の人生を、暇つぶしのコンテンツとして消費しないで。

こわいんだよ、嫌なんだよ、こんな人生、こんな家族。

本当は、愛したいよ、愛されたいよ。普通に生きていたい。

愛するママ…だったあの人が見ていたのは、私じゃなくて私を使った先にある「数字」だった。あの人が愛していたのは「数字」で、それを打ち出せる「あの人自身」だった。私はただの器に過ぎない。

空っぽの器に響いた、温かくて気の合う親友が、恋人が、勝手に垂れ流されてきた私生活、春を売るような親の仕事と収入を全部把握した上で近づいてきた人間だったと知って、発狂しない人間なんている?




ソーシャルメディアに子どもの写真をシェアすることを「シェアレンティング」といいます。共有(シェア)と親(ペアレンツ)の合成語です。シェアレンティングは、子どもの同意なしに写真が流出し、深刻なプライバシー侵害を引きおこすといいます。



Plunkett氏は、自分の子どもが写っているコンテンツを軽い気持ちで共有している親と、利益を得る目的で共有している親を区別しており、そうした営利目的の親の活動を「商業的シェアレンティング」と呼んでいる。

 「そうした親たちは、現在または将来何らかの経済的利益を得ることを期待して、自分の子ども、または、場合によっては家族全体のプライベートな瞬間や私的な瞬間を撮影し、デジタルで共有している」(同氏)

自分の実生活が公開されるというこの側面は、ソーシャルメディアで働く子どもたちと、プロのエンターテインメント業界で働く子どもたち(大抵、架空の登場人物を演じたりする)を区別する重要な要素だ。これから数十年かけて、ティーンエイジャーを経て大人になっていく多くのキッズインフルエンサーたちは、精神崩壊や屈辱、極めて個人的な場面など、自分が最も弱っている瞬間を親によってインターネット上で世界中の人々に公開されたという事実と向き合わなければならなくなる。

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