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古典は必要か否か

Twitterで最近、「教養とは何か」についての論争が起こった。

「古典は社会に出ても、何の役にも立たないから無意味」というポストから始まり、「古典を役に立つか否かで判断すべきではない。人生を豊かにするうえで必要な教養となる」という教養論にまで議論が発展した。

一連の流れを見て大学生の僕が思ったことは、役に立つか否かとか、教養として必要とか、そういう話じゃなくて、教養が無いと単純に

教養のある人と話すとき、何かめっちゃ焦るし、心臓に悪い

ということ。


例えば、
高校生の時、恋愛小説にハマってて、有川浩の『植物図鑑』とかメジャーなものから夏目漱石の『三四郎』みたいな古い作品も読んでたんよ。で、友達数人とコイバナをしたときに、「家柄の良いお嬢さんに翻弄される田舎の真面目君、ていうシチュエーションなんか萌えるよな~」みたいことを言ったら、「もしかして三四郎読んだか?」って聞かれて、そこから当時の時代背景の話になって、武者小路実篤の『友情』も良いよなみたいな話になって、どんどん話が広がってコイバナが盛り上がっていくわけ。いやいや、分からんて。

他にも、
美術の教科書に載ってる裸婦を見て、僕が「わあ~乳出してる、えっろw」って下ネタのつもりで友達に話しかけたら、「あ~俺は、ドラクロワの方が好きやな」って返されて、それを聞いてた別の友達が「マジで?ボッティチェリの方がどう考えてもええやろ」って口を挟んできて、それを聞いてた周りの数人がロマン主義がえろいか古典主義の方がえろいか、みたいな話で白熱したことがあった。いやいや、違い分からんて。

ボッティチェリ、春。



つまり、どういう時が一番焦るかと言うと、

名前は聞いたことあるけど、本を読んだことが無いとき

もしくは、

絵画を見たことあるけど、時代背景とか流派とか、詳しい理由までは調べて無かったとき。


教養があったら、あの時楽しかったんだろうな~とかじゃなくて、「話に付いていけない疎外感」「調べる機会はいっぱいあったのに知らないまま放置した、自分の無知と怠惰加減」にめちゃくちゃ焦る現象が一番しんどいっていう話。


だから、古典とか歴史とか大事だと思うし、教養もめっちゃ大事だと思う。単純に、教養のある人と話すとき、何かめっちゃ焦るし、心臓に悪いから。

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