いま考えること【東日本大震災から13年】
今日2024年3月11日で、東日本大震災から13年が経ちました。
岩手に生まれ、岩手に住む私が思うことを綴りたいと思います。
震災当日のこと
震災当時、私は20歳。
看護学校の卒業式を1週間前に終え、住んでいた学校近くのアパートを引き払い、内陸部の実家で過ごしていました。
当日は祖母と2人で自宅にいて、前日買った真新しいスマホで動画サイトを見ていたところで大きな揺れが……。
パニックで「家が潰れる!」と思って、祖母の手を引いて無理矢理外に出たことを覚えています。
続く余震に怯えながら、チラチラと雪も降ってきて寒いけれど、腰が抜けて家には入れない。
スマホのワンセグで流れる臨時ニュースで、沿岸部の津波を見て、
「何が起きているんだろう?」
「これは現実なのか?」
「看護学校の同級生はみんな無事か?(県内各地、もちろん沿岸部出身の同級生もいた)」
「家族に早く帰ってきて欲しい」
そんな思いで過ごしました。
家族が無事に帰ってきて、家に入りましたが停電状態。家の中もぐちゃぐちゃ。
幸いにもガスと水道は使えたので、冷蔵庫にあるものでご飯は作れましたが、余震の恐怖で喉を通らず。
夜もしばらく眠れない日々が続きました。
翌日以降のこと
停電は翌日の夜に復旧。
しばらくは
・ガソリンがなかなか手に入らない(基本移動は車がないと厳しい)
・スーパーなどの食料、日用品などありとあらゆるものが手に入りにくい
などなど、生活に多少不便はありました。
ただ情報はテレビやラジオから得ることが出来ましたし、家族や家屋に被害はほとんどありませんでした。
沿岸部出身の同級生も、たまたまテレビのニュースに映り込んでいて生存確認が出来ました。
当時、看護師と准看護師の試験の結果を待っていたところで、みんなで学校に集まる約束をしていましたがそれも出来ず。
卒業旅行も予定していましたが、それも中止になりました。
4月から関東の病院に就職が決まっていたので、就職先の病院や、同期になる学校の同級生と安全を確認しつつ連絡を取りながら、どうやって関東に行くかを考えました。
臨時便の飛行機で向かった人。
日本海側を経由して、電車で向かった人。
私は、トラックにありったけの荷物を積み込み、親と一緒に、復旧したてのガタガタの高速道路を1日かけて向かいました。
被災から考えたこと
私の経験を語ってきましたが、ずっとなんとなくモヤモヤしていたことがあります。
それは
「被災はしたけれど、自分は果たして被災者なのか」
確かに地震には遭ったけど、被害はそれほどなかった。
関東の病院に就職して
「地震大丈夫だった?」
「家族はなんともなかった?」
そう言われることが多いけど、私より辛い思いをしている人はたくさんいる。
私は被災者を語っていいのか、悶々としていました。
ある日この記事を読んで、こう思いました。
「自分は自分の経験を語っていいんだ。
確かに被害は少なかったけど、怖かったし不便な思いもした。
私は確かに震災を経験したんだ。」
同じ思いをしている人がいることが、とても心の支えになりました。
これからできること
私は現在沿岸部に住んでいます。
海の近くには、津波の浸水区間に標識が立っています。
引っ越してきた当初は、あのときの恐怖が蘇りました。今では「あぁ、あるな」くらいの思いで慣れてしまいました。
「慣れ」と「風化」は本当に怖いものです。
今の職場が福祉避難所に指定されていること、これからの災害に備えて自分の防災知識を身につけたい思いで、一昨年に防災士の資格を取得しました。
実際に防災士としての活動はしていませんが、災害に対する知識、避難所運営などの学びは、これからに充分活かせそうです。
自宅には水や食料や懐中電灯、電池などをストック。
毎年ふるさと納税では、トイレットペーパーやティッシュペーパー類を注文しストックしています。去年は災害用トイレを注文して、いざというときに使えるようにしています。
年始の能登半島地震があってからは、車載用の防災グッズを購入。
よく海沿いを車で走ることが多いことと、災害時は職場に泊まり込みか、出先で帰れなくなることを予想し、車にも着替えや食料、携帯トイレなどを置くようにしました。
あとは、よく行く場所から避難所までの経路、海がどちらの方向にあって、どちらの方向に逃げたらいいのかを考えながら行動するようになりました。
多分この先も、生きていれば大きな地震や災害に出くわすことがあるでしょう。
今、普通に生活できていることに感謝して、この普通が当たり前でないことを胸に刻み、日頃から備えて行きたいと思います。
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