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恥の多い生涯を送っています。

恥の多い生涯を送ってきました。


これまで沢山恥を晒して生きてきた。物心ついた時から恥ずかしいという感情はあって常日頃感じていた。人よりは恥ずかしい思いをしてきたと思う。人より恥ずかしい言動をしてきたのか、人より恥ずかしいという感情が強いのか、またはその両方なのか。とにかく恥ずかしい思います沢山してきたし慣れることは無い。本当はそんな思いはしたくないのに恥が邪魔して恥の上塗りをしてしまう悪循環に陥っている。


小一の時、外で転んで頭を打った。何針か縫う怪我だった。目の周りが青い痣になっていた。頭にネットをつけて痣もついた目がめちゃくちゃ恥ずかしくて学校に行きたくなかった。教室に入る勇気が出ず、教室の前で泣いていた。今のところこれが最古の恥ずかしさの記憶。


小三のはじめの視力検査で目がかなり悪くなっていた。その後眼科でメガネとコンタクトを作った。学校にメガネをつけるのがどうしても嫌でコンタクトも作った。意地でもコンタクトで学校に通っていた。どんなに目の調子が悪くても。


授業中にとっているノートを先生に見られるのが嫌だった。合っていても間違っていても自分の考えを見られるのが嫌だった。もはや何故見せなきゃいけないんだと思っていた。何とか見られないように手とか消しゴムとか使ってうまく隠していた。あまりにやりすぎて担任にキレられたこともある。


人よりも声変わりが早かった。低くて響かない自分の声が好きじゃなかった。今もそんなに好きじゃない。自分の声を聞くのが耐えられない。だから自分の声が入ったビデオは見れない。客観的に自分の声を聞く覚悟ができない。


人の目を見るのが苦手だった。おそらく昔の自分はほとんど目を見ていなかったと思う。多分これも恥ずかしさ、自信の無さからきていたのだろう。そのことで中学の部活の顧問にブチギレられてから目をある程度見れるようになった。これについては先生に感謝している。


高校では友達が全然いなかった。友達がいないことがそんなに苦というわけではなかった。そのことを実感させられる瞬間がキツかった。ベタだけど、授業中にペアを作る場面とか何もない自由時間とか。体育の時間中にバドミントンをする相手がいなくて一人でシャトルをラケットで打っていたのを覚えている。


パッと思いつくあたりでもこれぐらいの恥ずかしいことがあった。正直今でも文字にしたくないこともある。発表して間違えたこととか、大勢の前で怒られて泣いたこととか、人前でチャリで転んだりとかそれ程度の恥ずかしさは日常茶飯事である。堂々としていればいいのは分かっているけど小心者にはなかなかできない。自信をつければいいのはわかっているけど怠惰なのでそんな努力もできない。だから恥ずかしい思いをしてこれからも過ごしていくのだろう。


とは言ってももう22歳だから昔ほど恥ずかしさを感じていることはない。メガネをして大学に行くことはあったけどもう何も思わない。相も変わらず友達はできないし自信もそんなにないけどそれをどうこう思うことは昔よりはない。一応これも成長ってことでいいんですかね?成長なのか感受性が衰えたのか自意識が少し落ち着いたのか、いいようにも悪いようにも捉えられるけどせっかくならいいように捉えた方がいいか。

思えば恥ずかしがっているジジイを見たことがない。ちびまる子ちゃんの中野さんぐらいじゃないか。年をとればやっぱり良くも悪くも感情が落ち着くのだろう。恥ずかしさも若さの特権なのかな。感情が大きく揺れ動く思春期の大切さが今になってわかる。あれほどいろんな感情が渦巻くのはあの時期にしかできないと思う。考えるのにもエネルギーがいるから。そのことを思春期真只中に認識できたら精神衛生上良かったとも思う。


まだ22歳だから考えるエネルギーはある。そのうちに一杯いろんなことを考えたい。イヤーな感情が渦巻くこともあるけれどそれも忘れたくはない。それもエネルギーになるから。noteを書いているのも感情を残して置きたいという理由もある。どんな感情とも真正面から向き合いたい。

ちなみに一番最近の恥はゼミの発表のクオリティが終わっていたことです。こういう情けないことは流石にやめにしたい。

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