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祖母

 恋人が僕にくれたタイムリミットまであと半年をきった。それまでに僕が『家族』というものに対して肯定的なイメージなり展望なりを抱けないのなら、彼女は僕と別れていわゆる「婚活」を始めると宣言した。あらかじめ言ってくれるところに、僕は彼女の優しさを感じる。彼女は彼女なりに僕のことを理解し、出来る限りのことをしようと努めてくれている。

 ヒステリックになって息子の首を締めた母と「見猿・聞か猿・言わ猿」というシンプルな育児哲学を貫徹した父に代わって僕を育ててくれたのは祖母だった。彼女は僕にご飯を作ってくれたし、熱を出した時には隣にいてくれた。「死んだ後はどうなるの?」という答えづらい疑問を僕が抱いた時、「なーんにもなくなるよ」という彼女なりの本音を正直に伝えてくれた。ビクトリア朝風の庭の手入れが趣味にしていて、その庭は観光バスのルートにも組み込まれた。彼女は庭に咲く様々な草花や樹々のことを僕に語って聞かせてくれた。トネリコの実の伝説や、百日紅の名の由来、ケヤキが樹皮を剥がす理由、どんぐりのしたたかな生存戦略……。トケイソウという不思議な形をした花を見かけるたびに、僕はその当時を思い出して目頭が熱くなる。それは、僕が「家族」というものに対して抱いている本当に数少ない良き思い出の一つだ。

 小学校に入学すると、彼女は僕に多くの習い事をさせ、その全てにおいて一番であることを求めるようになった。彼女は、僕が他の子供に劣っているという事実に我慢ならないようだった。僕自身は特に「勝ちたい」という気持ちを強く持たない子供だったから、その頃から少しずつ僕と祖母の関係は壊れていった。

 とはいえ、その時はまだ所属しているコミュニティが小さく、競争もぬるかったのでちょっと無理をすれば”一番”になることができた。ピアノでも、絵でも、かけっこでも、勉強でも。問題は、僕がそうした「何事も一番じゃなきゃいけない」というプレッシャーの連続に耐えられなくなって、生まれて初めて死にたくなった小学校三年生の夏に起きた。僕は祖母に「疲れて、死にたい」という本音をうっかり漏らした。すると彼女は「自殺をほのめかしてサボろうとするなんて卑劣だ」と怒った。その怒り方があまりにも苛烈だったので、僕はふと、かつての母親のヒステリックさを連想し、祖母のこともすっかり怖くなってしまった。

 家庭の中に居場所を失った僕は家出の計画を練るようになった。様々な計画を立てたけれど、それらの中で最も持続的で、かつ現実的なものが寮のある進学校を受験して入学する、というものだった。その試みは成功し、僕は中学生から八人部屋の寮で過ごすことになった。

 実家を離れられて僕は心底ほっとしたわけだけれど、一方で祖母が僕に求める水準の成績を維持することが困難になった。その学校はけっこうな偏差値の進学校だったし、そこには僕よりも勉強のできる子が何人かいた。それでも祖母は僕に最も良い成績を期待し、僕がそれに応えられないと「そんな孫は最初からいなかったと思うことにする」と言った。「中学を卒業したら働いて、自分の稼ぎだけで生きていけばいい。私が子供の頃はそれが当たり前だった。それどころか、実家に仕送りだってしていた」

 僕はその言葉に傷ついたけれど、それ以上に自分の無力さに打ちのめされていた。中卒で自活していける強さがあったのなら、僕はきっと自分の生き方に誇りを持てただろうと思う。それでも僕は現実的な不安ゆえにプライドをかなぐり捨て、A+の並んだ成績表を祖母に謹呈して生きることを選んだ。その結果、僕は東大に現役で受かったわけだけれど、引き換えに自尊心というものを失った。

 大学を出て経済的に自立する手段を得ると、僕は家族とすっかり音信不通になった。孫を「東大卒」に仕立て上げたことで祖母は誇らしげだったけれど(彼女はそれを近所に自慢してまわった)、僕はそれがどうしても許せず、彼女からくる連絡の全てを無視した。父母の連絡も当然無視した。そしてもう半年が経つ。何ヶ月か前に「どこまで家族を傷つければ気が済む?」というメールが届いて、その二日後に「本当に大丈夫だから、連絡して」というメールが届いたけれど、僕の心の中にある何かがつっかえて、どうしても返信することができなかった。
「そんな子供は最初からいなかったと思えばいい」と僕の中にいる傷ついた存在が言う。祖母は自分の好きなように木々を剪定して、自分好みの庭でも造っていればいい。父は引きこもって小説を書いていればいいし、母はヒステリックで独善的なミストレスを続けていればいい。

 ただ、祖母の過去に思いを巡らせると、僕は彼女に同情的になることができそうだとも思う。彼女もまた、主体性を否定されてきた人だった。

 彼女はかつて、強い好奇心を持った活発な少女だった。16歳の時に友人と結託して家出をし、裕福な在日アメリカ人の実業家の下で住み込み女中として働いた。二年後、その実業家は帰国することになり、その際に祖母は実家との間で一悶着を起こした。彼女は実家と縁を切ってアメリカに渡るか、あるいは縁談の進んでいた(というよりは勝手に進められていた)エリート銀行員の男と結婚するかの二択を迫られた。そして彼女は結婚の道を選び、渡米を諦めた。18歳の時のことだ。その選択は、かつて僕が中卒で働くことを断念したのとそっくり同じ形をしている気がする。

 その後、彼女は二人の娘を産み、酔っ払って帰宅しては妻子に手を上げる夫——外向きの顔と収入はいい——の元で専業主婦を粛々とこなす。片田舎に閉じ込められた生活の中、彼女の広い世界への憧れは二人の娘に託されることになった。主婦仲間たちに「何もそこまで厳しく育てなくても」と眉をひそめられてしまうくらい、学業や習い事をたたき込んだ。まだまだ「女の子は結婚して専業主婦になるから勉強なんてしなくていい」という価値観が支配的だった時代の話だ。彼女がそこまでしたのは、かつて自由を得られなかったことの痛みを忘れられなかったからなのではないかと思う。他責的な生き方を好まなかった彼女は、その原因を自らの無力さに見出し、せめて自分の子供だけは強く育てようと決心したのではないかと思う。その結果、頭の出来がよかった方の娘は医者になり、そうでなかった方の娘は学校の先生になった。後者が僕の母だ。

 医者になった方の娘は子供をもうけなかったので、祖母には一人しか孫ができなかった。当然のことながら、その一人の孫に彼女の期待の全てが向けられた。その孫は多少の紆余曲折はあったものの、表立った問題を起こすこともなく「良い子」に成長し、東大に受かり、そのままエリート街道まっしぐらに進むかに見えた。しかし、その矢先、何の前触れもなく消息を絶った。

 彼女は今、どのように過ごしているのだろう?と僕は思わないでもない。祖母以外の家族は、僕にとってほとんど完全に「他人」だけれど、祖母に対しては家族としてのつながりを感じなくもない。主体性を否定されてきたことの恨みが和らいだ時、まだ彼女が生きていたら、僕は育ててもらったことを心から感謝できるのかもしれない。その気持ちを、一点の偽りや損得計算もなく伝えらえたらどんなにいいだろう、とたまに思う。それでも時間は無情に過ぎていくもので、どうも間に合わないんじゃないかという気がしてくる。それだけじゃなくて、他の全てのものも間に合わず、僕は今の恋人と家庭を築くチャンスも失い、ひとりぼっちで寂しく野垂れ死ぬことになるのかもしれない。

 僕は「家族」というものをなるべく考えないように生きてきた。僕の過去に書いてきた(あるいは読んできた)小説には全くと言っていいくらい「家族」が出てこない。僕はそこに家族のいないもう一つの宇宙を作り上げ、そこに閉じこもることで自分を守ったのではないかと思う。僕の父がそんなふうにして家族から離れていったように。

 もし、僕が家族を持ったのなら、父と同じことを繰り返してしまうのではないかと怖くなる。父は、父の親との交流が全くない。生きているのか死んでいるのかも分からない。僕も同じになるか、あるいは家族を持たないか、そのどちらかなのかもしれない。僕は家族についてほとんど何も知らないと言っていいけれど、それでも間断なく続くメンテナンス無しに維持できるようなお手軽なものではないことくらいは分かる。

 それでも困ったことに、僕は家族というものから逃げ出したい一方で、正直なところ、それを強く求めてもいる。

※最後までお読みいただき、ありがとうございました。もしよろしければ、忌憚のないご意見を聞かせていただきたく思います。「家族」というものについて、私はほとんど全くと言っていいくらい、無知で非常識です。
「こんなことは的外れかな?」
「こんなことを書いたら傷つくかな?怒るかな?」
 などのお気遣いは無用です。むしろそのような意見の中にこそ、意図して「家族」から逃げてきた私が向き合うべきものがあるのかもしれません。

 よろしければ、コメントをいただけますとありがたいです。

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