父親と愛。
僕には父親がいない。
もちろん戸籍上はいるが、生まれた時から僕の家庭には父親という存在がいなかった。小さいながらも、僕が生まれる前に母が離婚を経験したことは察していたし、それが当たり前の世界に生きてきた。
僕の人生には、父の影響なんて1ミリもない。母と父が仲良くしている日常なんてものも見たことがない。僕にとってそれは幻に過ぎない。
しかし、それをマイナスに捉えることは不思議となかった。母からは無償の愛を受けてきたし、幸せな家族であることは間違いない。
でも、それでも歳を取るたびに”父への憎悪”はどんどん膨らんでいく。憎たらしくて、ひたすら怖いと感じる。
僕が6歳の頃だ。夜に電話がかかってきた。僕は何の気なしに電話に出てしまった。そしたら知らない男の人の声で「おう元気か?お母さんいるか?」と聞かれた。僕は怖くなってすぐにお母さんに電話を差し出した。
するとお母さんは、とても強張った表情で、眉間にシワを寄せながら会話をしていた。会話の中身は分からないけれど、お母さんが電話の向こう側の人に対して、凄まじい負の感情を抱いていることは分かった。
「あー、これが僕の父親なのか。」と察した。察してしまった。
僕が何よりも大切だと思っているお母さんという存在を苦しめて、傷つけているのが僕の父親なんだ。
お母さんから直接、父の話を聞くことはまずない。でも断片的に”どんな人だったのか”を聞いたことはあった。
お母さんの周りの人、僕の親族からも”僕の父親”について話を聞いたことがある。まあ一言で言えばロクでもない人だったらしい。愛する人を傷つけて、大切であるはずの子どもまで蔑ろにする人だったらしい。
その話を聞くたびに僕は怒りが込み上げた。到底理解できない人だし、理解したくもない存在。それが僕にとっての父親なのだ。人生において一番軽蔑している。
しかし、その怒りと同時に怖くなることがある。それは「一番軽蔑している存在の血を引いている」という事実だ。
これはきっと僕にしか分からない感覚なんだろうけど、ものすごく怖くて震えそうになることがある。「自分は幸せになってはいけないのでは?」「愛する人を、大切な人を傷つけてしまう人間なのでは?」という恐怖心が常に付き纏っている。
ずっと、ずっと昔から。
でも同時に「そんなの関係ない」と笑って吹き飛ばす自分もいる。なりたくない存在になるわけがないと。そこまで馬鹿な人間じゃないさと思う自分もいる。
でも残念ながら、今までの人生を振り返ると自分の愛する人を心から大切に出来ていないことが多い気がする。いや、きっと愛情表現が過剰なだけかもしれない…。「何としてでも傷つけちゃいけない。」という想いは時に重々しくて厄介なものになる。”真剣に愛する”ことと”重い”のボーダーラインは非常に難しい。僕は今まで悪意のない傷つけ方をしてきたのだろうなと感じるばかりだ。
理想の愛を押しつけ過ぎている。誰よりも理想の家族を夢見ている。だって知らないから。一度も目にしたことがないからこそ、強く憧れてしまう。他愛もない会話で笑い合って、お互いに尊敬し合う恋愛関係を是が非でも築きたいと思ってしまう。でもそれが出来ない。手にしたように見える幸せはスルスルと僕の手から零れてしまうのだ。どんな砂よりも細かな粒子となって空に舞ってしまう。
「幸せになれない側の人間なのではないか?」という疑問が頭の中を支配することもあった。心ない親族から「アンタは父親に似てるね。」なんて言われるたびに、その恐怖心と懐疑心は増大していく。
しかし、歳を取るにつれて思う。境遇や環境のせいにしていては成長はしないと。いわゆる”可哀想な人”に収まろうとしてはいけないのだ。可哀想な人になれば、ある意味人生はラクだ。
みんなが僕のことを心配してくれる。構ってくれる。承認欲求を満たすことも容易になる。心配されるのは非常にありがたい。何よりも感謝すべきことだ。でもそこに甘えてはいけない。
可哀想な人に収まろうとすると、自分に不都合なことが起きた時、まず言い訳を考えるようになってしまう。「それなら仕方ないよ。君は悪くないよ。」と言われるための言い訳を考えるようになってしまう。
そう、人としての成長が止まってしまうのだ。
でも僕は前述した父親の件を盾に、色々なことから逃げようとしている節があった。言い訳相手は自分自身だ。
「しょうがないよ。俺を取り巻く環境が悪い。」
「俺は可哀想な人だから。また誰かが心配してくれるから。」
こんな感情が僕の心の根っこにあった。そんな感情があることにさえ気づいていなかったのが少し前の僕だ。
しかし、友人との会話や自分を見つめ直す作業の果てに気付くことができた。
僕は可哀想な人じゃない。ただの構ってちゃんの弱虫だったのだと。
何かある度に心配してくれる友人たち。
ではなぜ心配してくれるのか? 心配してくれるのは当たり前のことじゃないのだ。その視点を持たなきゃいけないんだ。
相手が自分のことを想ってくれている。その”想ってくれている側”に立って物事を考えるようになろうと僕は思っている。
大切な人には元気でいてほしい。笑っていてほしい。だからこそ人は他人を心配し思いやると僕は信じている。
綺麗事だと言われようが、優しさの裏側にはいつだって純粋な優しさがあると心から信じている。打算や利害感情なんてないと信じている。
述べてきた視点を持ったとき、膨れ上がった父への憎悪も和らいできた。
当たり前だが、父には父の事情があったのだろう。理解したくはないけど、理解しようとする姿勢を持てただけでも自分の成長だと思う。
結果的に父は僕のお母さんを大切に出来なかった。だからこそ僕は愛する人をとことん大切にしたい。無償の愛を捧げたい。
愛する人に蔑ろにされる苦しさ、辛さをを僕は知っている。第三者視点でも主観でも体感している。
「父のようになりたくない。」ではないのだ。それでは憎しみの対象にしかならない。それは悲しすぎる。
「愛する存在・自分を想ってくれる人を大切にする。」
これだけでいい。人を想えば、想った分だけ優しさは回る。
顔も知らない父。好きになることもないし、会いたいとも思わない。でももしどこかで会ったら、その時はゆっくり話をしたい。
今までの人生のこと。現状のこと。たくさん話してみたい。
今の僕ならきっと「あなたの子どもで良かった」と言えると思うから。
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