溺れていく人

母がうずくまって泣いていた。
「具合が悪い」「気持ち悪い」
僕が何を言っても返ってくる言葉はそれだけだ。

すかさず背中をさする。顔を近づける。
僕は母に聞いた。
「何かあった?体調崩したなら病院行こう」
そう聞いた瞬間、母から匂いがする。

酒だ。結構な量を飲んだのだろう。
深夜2時ごろの飲み屋から漂う匂いと同じ。
自分が酔っているときは気付かないのに、他人のはどうしようもなく気になる酒の匂い。
それが母から漂っていた。

具合が悪そうながらも母は口を開いた。
「最近お酒ばっかり飲んでるの。これしかないの。」

僕はすぐに水を用意して母に飲ませようとした。
うずくまっていた母が顔を上げると、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっていた。

初めて心の底から絶望を感じる。
友達と飲んだ時、冗談で「お前そんなに飲んだらアル中になるぞ」と言っていたけれど、今僕の目の前にアル中になりそうな人がいる。

一瞬で頭の中へと想像もしたくない未来が流れ込んでくる。
アル中になる母、入院する母、別人になっていく母、軽蔑の対象になっていく母
そんなこと思いもしたくないのに。

そして自分を責める。
こうなる前に気付けなかった自分を心から責める。

どうやら僕が寝た後、深夜にお酒を沢山飲む生活を続けていたようだ。
なぜ気付けなかったのだろう。
元々母はお酒が好きな人だから、飲みすぎるなんてことはないと高を括っていたのかもしれない。

でも今はそんな自責の念を感じていても仕方ない。
この状況をどうにかするしかないのだ。

泣いている母を見ながら、僕も涙をこらえて病院へ連れていく。

良かった。アルコール中毒ではないらしい。
単純に最近の飲みすぎが身体に支障をきたしていたとのことだ。

ひとまず安堵して家に帰る。
僕と二人きりの空間で、母はまた泣いた。そしてこう言うのだ。
「いつもこんなんでごめんね。」
「こんな母でごめんね。もっと違う家庭で生まれてたらね。」

僕にとって母は唯一の家族だ。
シングルマザーとして想像以上に尽力してきただろう。
それなりに感謝も伝えているはずなのに。なんでそんなことを言うのだろうか。

お酒の匂いが微かに残りながら赤ちゃんみたいに泣く母を目の前にして、僕は何と声をかけるべきか分からなくなった。
「そんなこと言わないでよ。」なんて言葉は薄っぺらすぎる。この状況は変わらない。

というか、少し前にも似たようなことがあった。
精神が安定していないところがある母は不定期的に感情が乱れてしまう。
そのたびに僕が説教したり、僕なりに優しい言葉をかけたり、カウンセリングを受けている。

しかしながら、お酒を頼ったのは初めて見た。
お酒に溺れていく人なんてドラマや教習用のビデオでしか見たことがない。
現実味のない現実を突きつけられている。

薄っぺらい言葉なんてかけても仕方ないと判断し、僕は”こうなった原因”を聞いた。
母の子どもとして。そして母よりも母を知る人間として。

すると「(息子が)離れていくのが怖い」と言った。
僕はすぐにその言葉の真意が分かった。

僕は実家を出て一人暮らしをしようとしている。そして今好意を寄せている人もいる。
母はそれを知って、どうしようもなく怖くなってしまったのだ。

一人っ子で大切に育ててきた子どもが正真正銘離れていくのが怖いのだ。
僕は親になったこともないが、その気持ちは理解できる。
そりゃどうしようもなく悲しいだろう。
しかし、ここで母の気持ちを全面的に肯定し共感するのは間違っている。
それは僕の幸せに結びつかない。

残酷かもしれないけど、俺は俺のために生きたいよお母さん。

僕はそっと母を抱きしめ「大丈夫だから。この人生で幸せだよ。」と声をかけた。

母は泣き止んだ。きっと自分が情けなくて泣いていたんだ。
欲しかった言葉は「大丈夫」の一言なのだ。

そして家にあるお酒をすべて捨て、飲み過ぎないことを約束した。
口約束なんて破るのは簡単だけど、破らないだろうという安心感がある。
というか、もし破ったらその瞬間に病院へ連れていく。
さらに「もし俺がアル中になったらどうする?すごい嫌でしょ?それと同じ気持ちだよ」と言った。


家族という存在は不思議だ。明らかに他人とは違う。でも他人でもある。
家族が好きな人もいれば、嫌いな人だっているだろう。
あるいは「好きだったけど嫌いになった」というパターンもあるはずだ。

僕は母を愛している。しかし不安定な母は嫌いだ。

僕の母の場合、長年一緒にいることで”母の僕に対する愛情”が歪になってしまっている。
母の中で僕は全てなのだ。そして同時に僕にとっての全てだと思っていてほしいのだろう。

でも違う。僕は歪な形の愛情を受け取れる器じゃない。申し訳ないが断固として拒否をする。

ここで「この家すぐに出ていくから。もう知らない」と言うのは簡単だ。
今すぐにでも出来る。

しかし、それは僕が思う愛じゃない。それこそ歪んでいる気がする。
僕は今の母を受け入れない。でも”今の状態じゃない母”は大好きだ。
だからきちんと言葉をぶつけてあげたい。

きっと母はもう気付いている。スイッチの在り処も知っている。
あとは押すだけだ。

微塵もしんどくはない。だって母も僕も「明るい未来」を描いているのは間違いないのだから。

形が変わってしまった愛情を元に戻す。
大丈夫だよお母さん、俺は絶対ずっと幸せだから。

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