裁判官と公園の話を書いてみた 〜キリスト教会の「正しさ」と「強さ」について〜
明日の礼拝のために、足に鎖がついているような感覚で1週間歩き続けている。考え続け、悩んでいる日々は、あまり知られないし伝わりにくい。「さゆり先生が5分で書くのを自分は3日かかります」なんて言われて、しょんぼり。「ああ〜よく言ってくれたものよ。私が5分で書いているわけないのに」と心の中で思った。「きっとそれを言っても、伝わりにくいんだよね、私の言葉は」と自分に呟いて、反論は諦めた。
そんなに簡単に書けないし、ずっとずっと心の中で考え続けて、怖気づきながら、迷いながら筆を入れてきたことは、言わないことにした。
味噌汁を一緒にいただく時、「この味噌はこれこれしかじかの方法で大変な思いをして作り、特別な材料で銅の河野」と説明し続ける恩着せがましいテーブルトークと同じように思えて。自分の労苦と活躍ぶりを披露して、味噌汁を不味くしてしまっては本末転倒だから仕方ない。
この一週間は、相当努力して書いているようには思われていないことがはっきりわかる出来事が重なった。しかし、腐らされずに、足に絡んだ鎖の跡を見るのは自分だけの秘密だということにして受け入れて行くしかあるまい。
今回の巻頭言は攻め切ろうと思って書いた。
至る所に溢れかえるありとあらゆる、筋肉質な聖書解釈に打ちのめされる。一言で表現するともはや「怖い」レベルの前のめりな話が周りに溢れていて、マージンほとんどなしの漢字羅列の企画書みたいな「使信・メッセージ」、時には「お祈り」を「聞かされる」。下敷きにされている人がいるだろよ、そのお話には、とそういう違和感を表現しようとした。
以下が、明日の巻頭言用に書いたもの。タイトルは「公園に集まろう」。聖書の箇所はルカによる福音書18章1−8節。何やねん、このタイトル、と思われてるけど、教会の礎とか大黒柱とか、基調とか、土台とか…そうそう、それは大事なんだけど、野原へ、公園へ出かけよう、集まろう、そう言いたかった。
慎重で覚醒的であるとの自負がある読者や牧師ほど、この箇所からは、イエスの生きた一世紀のパレスチナ地域が「暗闇」だったと断定し読むでしょう。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」(2)を、司法が不正に満ちていた状況から読み始めてしまうのです。知的な読者はイエスが言った「不正な裁判官の言いぐさ」にも増して神が義の裁き人であることを、信仰者の希望と提示するでしょう。不正という言葉に嫌悪感があるからですね。
ここから先は
サポートいただけるととっても嬉しいです。ありがとうございます。活動資金として大切に使わせていただきます。感謝。