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すべてが失われること

蛇の台詞には悪意があるのか?

創世記3章にある、蛇と女の対話から「神についての噂話」という切り口で考えたことを記しました。

https://note.com/figtreegarten/n/n2737765ab6bb

ここでは、その「噂話」の中身をみてゆきたいと思います。
 物語の第一声、蛇の台詞を深掘りし、現代社会に横たわる課題と接続させて考えてみよう。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(Gen.3:1 後半部分 『新共同訳 聖書』)。

「どの木からも食べてはいけない」という蛇の台詞は女への「誘惑」でしょうか?「食べてはならない」と言われている木は一本のみでしたが(2:16)、蛇は「どの木からも食べてはならない」と言いました。この言い回しは、たった一本の禁止事項に焦点を当てるトリックのように扱われてきました。本当に、「どの木からも」という問いは詐欺的で、悪意ある発信でしょうか。

「矛盾」の合理的解決

創世記冒頭に現れる「矛盾」を合理的に解決するには、いわゆる資料仮説というのは大変都合が良いものです。私自身は、資料仮説については全否定するどころかむしろ、聖書を読み解く上での重要な思考方法だと思います。そして、確実にヘブライ語聖書の背景には、「資料」的な文書群、編集者グループが実在していたと考えています。《この点については聖書学に関わり始めるときに日本語で読める本として提示される「総説」的な文献に網羅されています。》
 人の創造について異なる記述が続いていること、異なる神名の使用が複数あること、文書内の矛盾があまりにも多いことなどに対する素朴な疑問を放置せず、文書の成立年代、担い手(筆者、編者)たちが異なる資料、しかも各地域や年代、他宗教や文化的慣例を反映した伝承が登用されていると考えることは真理探求の誠実な態度だと思います。
 聖書だからといって矛盾や、地理的歴史的背景を無視する必要はなく、「おかしなことはおかしい」のです。
 確かに、1章冒頭からと、2章4節後半からの部分の時代背景は「素人目」に見ても異なります。《聖書の話を発信すると、素人扱いされ、上から目線でギャアギャアドグマを繰り返される経験が多いので、「素人目」で見るという表現にはアイロニーが含まれています》。資料的背景を想定することで、矛盾は解決されるかもしれません。それはそれでスッキリするのですが、そこにも待った!をかけたいのです。その待った!は、資料仮説、特にもう収集がつかないほど微細な資料研究は「ラボ神学」だということです。
研究費をたっぷりもらい、研究に時間を割くことで、生活が成り立ち、日常生活維持の不安を経験できない、男性たちが外からの風が入らない研究室で作業をしてようやく解明されることではないか?という、仮説提唱者地震への疑いを持つことが、希薄だったのではないでしょうか。
 教会の信徒から「わかりにくい!」「そんなことはどうでもいいから、愛を語れ」と言われることがない場所で培われていく果実が果たして、見るによく、食べるにふさわしいのかどうかを疑うのは、彼らの仮説が不毛だというのではなく、彼らの仮説で説明がついてもなお残された矛盾については、彼らとは立場がかなり異なる状況にある私に委ねられた余白のように考えています。

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