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チェンソーマンの感想:女の子のおっぱいを揉むことから考えていくチェンソーマン漫画第1部とアニメシーズン1

アニメ化もされて話題になっているチェンソーマンの漫画の第1部(11巻まで)と、アニメ一期を観てみました。まだ完結していない漫画だし、アニメも今後続いていくのでしょうから、迂闊なことは書けないのですが、ちょっと思ったことも有るので、簡単に書いてみたいと思います。

初めに書いておきますが、私はこの漫画の中で姫野先輩が一番好きでしたので、アニメが少し原作を離れて「姫野先輩とアキ君の話」になったことを祝福すると共に、複雑な感情を抱いています。

なんで、初めに書いたのか?

それは、私は「姫野先輩がこの漫画の中と言うか、最近触れた漫画やアニメの中で一番好きな女性キャラ」であるのと同時に、「今から書く文章の大雑把な趣旨」を示すことでもあるからです。

というか、書き終わった後に、こんなことを書いていたら社会的地位を失いかねないよな、と思ったのですが、私の文章が広く社会に読まれることは無いだろうし、そもそも失う社会的地位も無いので、取り敢えず、載せていこう。

では、よろしければ、以下の文章をお読みください。

◎女の子のおっぱいを揉むことから考えていくチェンソーマン漫画第1部とアニメシーズン

お前は何を書いておるねんと自分でも思うのですが、芸術なり映画なりアニメなり漫画なりで何かに触れて自分が思ったことは、自分にしかないものなので、書いていきたいと思います。

チェンソーマンを巡る話で、「子供が読む少年ジャンプでおっぱいを揉むシーンはいかがなものか」という感想をポッドキャストで話している方がいて、なるほど、確かにその通りだな、と思いました。

これは漫画だと2巻の第12話「揉む」、アニメだと第4話と第5話の話なのですが、登場人物のパワーちゃんが主人公のデンジ君に、敵に勝ったから約束通り、おっぱいを揉ませてやるよ、というところの件です。

子供が読む漫画で、そういうエッチなことを描いて良いのかというと、確かに問題かもしれんな、と思います。生々しい性描写というのは、それに触れたことのない子供にとっては、暴力描写以上にショックを与える可能性が有るかと思います(これは、個人的な経験からも分かりますので、私も子供を育てる上で、特に気にしている点です)

ただ、私が漫画でこの話を読んだ時に、さほど問題意識を感じてはいませんでしたので、「少年ジャンプでおっぱいを揉む話、これ如何」の意見を聞いた時、なるほど、そういう考え方も確かにあるな、と思ってもみなかったことに気付かされた感じでした。

むしろ、私にはこの後のエピソードを含めて、女の子のおっぱいを揉むという描写(何回、おっぱいを揉むって書くねん)について、作者の藤本タツキさんに「なるほど、こんな感じでこの漫画は攻めていくんですね!」と少し納得、というか感心をした部分が第12話「揉む」を読んだ時にありました。

その点を書いていくことが、私の「チェンソーマンの漫画の第1部がこんな話」というまとめになるし、「アニメの第1期がああいうストーリーになった理由」と思うことを述べることにも繋がります。

さて、件の漫画第12話「揉む」を最後まで読むと、パワーちゃんのおっぱいを揉むシーンは「伏線」ということが分かるかと思います。

その伏線が回収される第12話で一番重要なシーンは(パワーちゃんのファンには申し訳ありませんが)、勿論、その後のマキマさんのセリフのところ。

つまり、「エッチな事はね 相手の事を理解すればするほど気持ちよくなると私は思うんだ」です。

相手への理解が無いまま、何となくの漠然とした「おっぱいを揉みたい」という願望を満たすためだけにパワーちゃんのおっぱいを揉んだデンジ君ですが、あれほど、「やってみたい」と思ったことを実際にやってみると、意外と自分自身が何も感じなかったことに気付き、すこし落ち込んでしまいます。

そのことを話した後、マキマさんが言うのが上記のセリフ。

そして、色々とマキマさんの言う手順(手を握ったり、耳を触ったり、指を嚙まれたり)していって、初めてマキマさんの胸を揉んだとき、デンジ君は椅子から転げ落ちてしまうほどの衝撃を受けてしまいます。

「おっぱいを揉みたい」というのはデンジ君にとっては、「やったことが無くて、やれる見込みが無いから、やってみたい」という漠然とした欲望、とも言えない願望の一つだったのだと思います。

そして、究極的には他人の身体の一部を触ることでしかない「おっぱいを揉む」という行為は、それだけで何らかの快楽が自分自身に与えられる訳ではない(かどうかはわかりませんが、デンジ君にとってはそうだった)。

しかし、マキマさんと少しだけ会話しながら、心の交流を重ねた後の、「おっぱいを揉む」という行為は違っていた…ということが描かれているかと思います。

このおっぱいを揉む、という行為に限らずですが、漫画を読んでいくと、デンジ君にとってやりたいことの多くは「やったことが無くて、やれる見込みが無いから、やってみたい」という程度ということが多いように感じました。

だから、パワーちゃんのおっぱいを揉んでガッカリして、その後、マキマさんのおっぱいを揉んで衝撃を受けた、というこの描写を漫画で読んだ時、私はチェンソーマンは「主人公が、色々な人と接したり、様々な経験をしていくことで、より複雑で高度な価値を見つけていく話」と思いました(何回、おっぱいを揉むって書くねん)。

単純におっぱいを揉む(何回ry)だけでは、意味がなく、性的な行為には心の交流が必要ということが、第12話では示されています。昔、コーヒーの宣伝で「違いがわかる男」というキャッチフレーズがありましたが、私はそれを思い浮かべました。

エッチな事だけでなく、食事、人との接し方などについて「やったことが無くて、やれる見込みが無いから、やってみたい」と経験していったデンジ君が、実際にやってみて、単純では無い「違い」があることに気付き、それを心の底に落としこんで、行動が変わっていく…

先ほどの「より複雑で高度な価値を見つけていく」というのは、言い換えると、「(やったことが無いから、試しに)やってみたいことから、(自分の価値観を築いた上で、それに基づいて)やりたいことを見つけていく」という風に書くことが出来るかと思います。

その辺がこの漫画のテーマの一つなんだろうな、と12話を読みながら感じました。

ちょっと12話の話から逸れるのですが、漫画の一番最初にデンジ君は腎臓、右目、睾丸をそれぞれ片方ずつ売ったと話していますが、デンジ君の「本当に何も無い少年」感をうまく表現しているな、と思いました。

もし両目が無い、睾丸が両方無いとかだとそのこと自体に意味が産まれてしまいます。デンジ君には何も無いけれど、それは致命的ではなくて、生きることにも絶望していない。ほんのささやかなことだけど、「やったことが無くて、やれる見込みが無いから、やってみたい」ことが沢山ある。これは、もしかしたら、今の子供たちにもシンクロする部分が有るのかもしれないな、とも思いました。

と、いう感じでチェンソーマンは「子供達が共感出来る主人公が、色々な経験を通じて、『違いがわかる男』に成長していく話」ということで、「正統派少年漫画」なんやろうな、とおっぱいを揉む(ry)一連の話から想像(妄想?)しました。

更に、この第12話「揉む」について、個人的に感心をしたのはマキマさんのセリフの「エッチな事はね 相手の事を理解すればするほど気持ちよくなると私は思うんだ」を、パワーちゃんの「伏線」と併せて、分かりやすく1話で描いたという点でした。

男の子向けの少年漫画、青年漫画には時々、意味をあまり感じられないエッチな描写が入ることが有り、多くの漫画では、単純に少年男子とか青年男とかがそういう描写が好きなだけなので、「サービス」的に入れられているものかと思います。

でも、チェンソーマンでは相手の事を理解しないままに行ったエッチな行為は何の興奮もないまま、「なんか違う」という違和感を感じるものであり、少しでも相手と心の交流があった上で行ったエッチな事は、心に衝撃を与えるものすごい経験になることを、第12話の1話だけで示しています。

この第12話が少年ジャンプに載って、子供が読んだ時、単純に「エッチな描写があって、嬉しいな」と思うだけなのか。それとも、同じ1話の中で並べられた二つの行為を対比させて、生きていく上で大切なことの一つに気付くのか。

情報化社会の今の子供たちは頭が良いと思うので、私自身は後者に賭けてみても良いかのなと思います。

そして、この話を描いた藤本先生や雑誌に掲載した関係者の人に、「性描写のある回なのでショックを受ける子もいるかもしれませんが、それはストーリー上も意味のある描写だったし、私は良い話だったと思いますよ」と伝えたいなと思いました。まぁ、チェンソーマンは、性描写の前に激しい暴力描写や人体損壊の場面とかが有るわけですが…

上記の通り、私はこの第12話でチェンソーマンという漫画が「主人公が、色々な人と接したり、様々な経験をしていくことで、より複雑で高度な価値を見つけていく話」「やってみたいことから、やりたいことを見つけていく話」「主人公が色々な経験を通じて、『違いがわかる男』に成長していく話」かな、と全体のテーマみたいなものに触れられた気がしましたので、こうやって書いておきたいと思います。

漫画第1部については、「そのテーマ自体が実は…」と話が進んでいったので、それが元からの構想だったのか、連載していくうちに作っていったのかは分かりませんが、それなりに楽しく漫画の方は読むことが出来ました。

さて、アニメについても書いてみたいと思います。

最初に書いた通り、アニメのシーズン1は観た人ならわかると思いますが「姫野先輩とアキ君の話」です。肝心の「デンジ君の成長の話」については、原作通りに着実に進んでいきましたが、それほど強くは描かれていないと思いました。

これは、なぜかというと、アニメ化された漫画の1巻から5巻まででは、未だデンジ君がストーリーを担っていく程に成長していないからではないか、と私は予想します。

つまり、アニメ化された漫画第五巻まででは、デンジ君は成長を続けている初期であり、物語を引っ張っていくキャラとしてはちょっと「弱い」という判断が作り手によって下されたのではないか。

そして、アニメシーズン1のラスボスはサムライソードですが、これは漫画のアニメ化の長さとしては妥当なところだと思います。

そのラスボスが殺した(銃で撃たれたのですが)姫野先輩の比重を物語の中で上げていけば、ラスボスを倒した後の感動が深まる効果があって都合が良いです。そして、姫野先輩の比重を上げるということは、そのまま、姫野先輩とアキ君の関係の描写が濃くなっていくこととなります。

ということで、チェンソーマンはデンジ君が成長していく物語だけど、アニメ化してる巻数分では物語を背負うほど成長しきっていないので、悪い言い方をすると「話の間を持たせるために」姫野先輩とアキ君の話にアニメの1期はなったのではないか、と思ったと簡単に書いておきます。

と、書いておいたんですけどね。本当のところはね。

違うんですよ。

チェンソーマンがどんな話かとか、正統派少年漫画とか、性描写の話とか、やってみたいとかやりたいとか、ハッキリ言ってどうなったって良い。

最初にも書きましたけどね…

姫野先輩、めっちゃカッコ良くて、可愛いじゃないですか。

漫画で死んじゃった時、FSSで〇〇〇ンが死んだときくらいショックだったんですよ…

それでね。アニメでは姫野先輩がクローズアップされて、毎回毎回、姫野先輩が出てくれて、本当に嬉しかったんですよ…。同じシーンが次の回で別アングルで描写されたり、死んだ後も毎回出てきてくれるし。

アキ君が敵に乗っ取られた幽霊の悪魔を倒すときに、一瞬、回想みたいな形で、姫野先輩出てくるでしょ。「姫野先輩……もうすぐ俺も行きます」のシーン。

あの時、姫野先輩、アニメではなんか言ってるけど聞こえないじゃないですか。あれ、なんて言ってると皆さんは思いますか。私は「アキ君、好きだよ」じゃないかと思ってるんですよね……そういう話を、みんなでしたいんですよね、本当は…

どうでも良いと思ってますか?実際、どうでも良いんですけど、私にとってはどうでも良くないんですよね…

辛い…

どうして、こんな辛い思いをしなければならないのか…

アニメを観終わって、2週間くらいはショックで姫野先輩のことをずっと考え続けたくらい辛かったんですよ…

こんなにもアニメで姫野先輩が出てくるのは、製作者側に姫野先輩のことが好き過ぎる人が居るからかな、とか思ったのですが、だとしたら、私がこんなにも辛い想いをしなければならないのは、そいつの個人的嗜好のせいであり、そんなことは絶対に許されない。許さない。

だから、どうしてアニメの1期が「姫野先輩とアキ君の話」になったのか。なってしまって、どうして私が辛く苦しい想いをせねばならないのか、ということを考えながら、心の中で整理をつけたことを文章にしたのが上記の通りとなります。

という訳で、この文章は(実は)これで終わりです。チェンソーマン2部は未だマンガを 読んでないのですが、巻数がそろってきたら、読みだすつもりです。

では、最後まで読んでいただきありがとうございました。

姫野先輩、天国まで聞こえますか。

これが私から貴女への鎮魂歌です。

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