叱れない親

先日、練習をしてこなくて発表会に間に合わない状態だった生徒にモーレツに叱りました。
小学3年生。英語の発表もピアノも完全に本人の練習不足。そこでなんとか本番にできるようにしようと思うのが普通の先生かもしれませんが、できないのは自己責任
「先生はもう教えん!やるべきことをやってこなかった自分が悪い!恥をかこうと先生は知らん」
と、お母さんの前で怒鳴りました。
レッスン後、お母さんも本人が悪かったことはわかっていて、息子に
「先生は嫌われてもいいから、あなたのために言ってくれたのよ。そんな大人は他にいないよ」と言ってくれたとLINEが来ました。

ここで気づいたことに私は「嫌われてもいいから」とは微塵も思っていないのです。
私は教室を始めてから、叱る時にはモーレツに大きな声で怒鳴ることも何回もして来ました。
その全ては、
間違っているから
でした。約束を守らない、周りのことを考えない、わがまま、無責任、子供のうちはどこかでこういう間違いをするものです。
それが、いけないことだとしっかり教えずにはいられないだけなのです。
まだ小さいうちにそんなに大きな声で怒鳴られれば、泣くこともありますが、絶対に慰めないです。慰めたりなだめたりしたら、正義もなくなる。
それは私の中では当然なのです

怒鳴らなくても伝えられる

ことかもしれません。ただ強く叱ることの意味は、物事にはっきりとメリハリをつけること。どのくらいいけないことなのか?のレベルをわからせることも必要と思っています。

最近は、子供の意思を尊重するとか、心に傷跡を残さないとか、さらには◯◯ハラスメントになるからっと、強い口調で叱ることに壁ができていますが、その叱れないことの背景に
「嫌われる」があるとは驚きました。
子供を育てる時に、嫌われないことが計算に入るとすれば、その分言葉に遠慮があったり、ためらいが出てしまう。そうなればしっかりと心に届く言葉にはならないでしょう。

子供にモラルを教える、つまり「しつけ」るには「これはいけないことです」と親が思っていることをはっきり見せることが必要だと私は思います。

確かに私が怒鳴る時は瞬間湯沸かし器的はところもありますが、それを繰り返すうちに、生徒たちは私が「何に対して怒るのか」はっきりと見えてきて、それがいけないことなのだと分かれば、信頼もしてくれるのです。

そうして育った教室の子は学校の愚痴を言うこともあります。
間違っていると思うことが、はっきりされずに通っていることが納得できないけれど、親に言っても、学校の先生に言っても、はっきりと間違っていると言ってもらえないからだと思います。私は彼らの愚痴を聞いたら、私なりに何が間違っていて、何が正しいか?そして間違っているとしても、そこでどう対応すればいいか?を一緒に考えます。
少なくとも生徒は「やっぱりこれは間違っているんだ」と確認できるだけでも気持ちの整理がつくのです。

それは、私が常に間違っていることにはっきりとした怒りの姿勢を見せてきたからだと思います。

今の時代にこの文章を書くのは、多少勇気も入りました。なんで?
それは私の感じる正義感はもう時代遅れになっていて、書いたところで伝わらないと思っているからかもしれません。

でも、今注目されているドラマ「不適切にもほどがある」を見て、勇気をもらいました。
遠慮なくゲキを飛ばし、ケツバットもできた昭和の時代。
あれは間違ってなかったぞ!というメッセージを感じて

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