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加藤のファミリーヒストリー 5

昭和20年東京は3月10日の大空襲を経て終戦
尚文は特攻隊出陣を目前に終戦を迎えます。
そのほかの子供達も東京へ戻り、皆学校に戻り進学します。
母の進学した小松川高校には作曲家の石桁真礼生や伊藤栄一(のちに伊藤京子さんと結婚される)と言った音楽家の先生が教鞭をとっていました。
今でも石桁氏作曲の小松川高校校歌は歌うのが難しいと聞いたことがありますが、当時の優秀な先生による作曲だったのですね。
君枝は伊藤先生指導の合唱部に入って歌っていました。その頃の同級生の方とは今でも仲良くおつきあいが続いています。

母からよく聞かされた、下町のお正月の話で、どこかの家でカルタ(百人一首)をしている声が聞こえたら、誰でも勝手に入って行ってカルタに参加していたと言うのです。今では考えられませんが、当時は玄関も開けっ放し、お隣同士もとても近くて、みんなよく知った仲だったのでしょうね。

加藤家にも子供達の友人がたくさん遊びに来ていました。
ここに、よく遊びにきていた蜂谷緑さんが書かれた話を載せます。当時の加藤家の様子が感じられる文章です


あれは昭和20年代のはじめ、私が疎開先から東京へ帰ったばかりの頃だった。私が転校した都立高校の同級生に、加藤登美子さんと言う人がいて、学校中知らない人のいないくらいの人気者だった。登美子さんんと知り合って間もない夏のこと、平井駅の近くで一人の青年に出会った。
白絣の着物にきちんと袴をつけた書生姿は戦前さながらで、たいそう人目を引いていた。「よっ!」と大きく片手を上げたその人「兄よ」と登美子さんが教えてくれたそれが尚文さんで海軍予備学生から復学、公務員になる前後ではなかったかと思う。加藤家は荒川の土手の近くの焼け残った一角にあった。登美子さんに誘われて遊びに行くと、小学生の弟がいて話に入ってくる。高校生の私たちよりもよほど物知りで、すっかり感心して聞いているうちにまんまといっぱい食わされると言うこともあった。それが少年時代の尚武くんだった

当時母のみつさんはPTAの役員をしておられた。今にして思えば2部式授業の改善や、新制中学校の建設などで大変な時期だったろう。戦後のPTAが女性の潜在能力を引き出したと言われるが、みつさんも水を得た魚のように生き生きと活動しておられた。ある時共産主義についてと言うレポートを提出することになった私は、何時間かぶっ通しで尚文さんからレクチュアを受けた。シェークスピアの世界から始まって、フランス革命や産業革命のこと、マルクス レーニン 毛沢東に時の宰相吉田茂まで、登場してくるその語り口に魅了されてせっせとノートをとった。そして私の研究発表は、教室を沸かせることになったのだ。
それも当然だろう。やがてその道で力を発揮することになる尚文さんが、乗りに乗って喋ったものを、そのまま私が受け売りしたのだから。それにしても民主教育盛んなりし頃の高校社会科の活気に満ちていたこと!

父の清さんは、福沢諭吉の精神を継いで、特立独歩をモットーに営々として自分の小さな工場を守って来られた方だった。加藤家においては男女は平等であり、女性も自立する力を持つことが教育方針であった。
けして豊かな家計ではなかったと思うのに、登美子さんも君枝さんも当然のことのように大学に進み一人は薬剤師として、一人は音楽教師として結婚後も自立の道を歩くことになる。

その頃母を亡くした私と弟にとって、加藤家の家族の団欒に身を置くことでどんなに慰められたかしれない。特にお正月は人が集まって賑やかだった私たち姉弟も毎年招かれておせちをご馳走になり、カルタを楽しんだ。やがてこのカルタ会に、フランス人形のような愛らし人が加わってから、読み手の尚文さんの態度がフェアでなくなった。彼女に札が取れるように目配せしたり、声の調子でそれと気づくようにするのだ。他の娘が悔しがっている間に二人は結婚することになった。

一方で、60年の安保闘争が始まっていた。私は加藤兄弟によって、戦後の昭和史を目の当たりにしてきたような気がしている
トポスとしての家 蜂谷緑さんの原稿

左から5番目が君枝、その左におられる英語の先生とは先生が100歳になるまでもお付き合いがありました
加藤家のお正月
中央白いタートルセーターが尚武、その左が君枝右から3番目の女性が蜂谷さん


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