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クジラになりたい私たち ~真の障害理解に向けて~

発達障害等の見えにくい障害を抱える人たちを、水中で生きる人間に例えた話があります。

障害を抱える人は、「海の中で暮らす人間」のようなもので、

障害によってできないことを責めるのは、「どうしてエラ呼吸できないの」という言葉かけに等しい。

けれど、ボンベを使うことで多少の不便があるものの、同じ世界で生きられる、という内容です。

ボンベは、例えば、聴覚過敏を持つ自閉スペクトラム症の方であればイヤーマフかもしれませんし、AHDHの方ならコンサータかもしれません。あるいは、周りの方の配慮や環境調整かもしれません。

私自身は、このたとえは非常に素晴らしいと思っており、こうした考えが広がることで無用に苦しむ方が少しでも減ればと思っています。

一方で、私がこれまでに接してきた生徒の中には、自身に障害があることを隠し、周囲の理解をはねつけて自力で生きられることを示すことにこだわる方たちもいました。

そうした生徒が心を開いてくれた際に、私はいつも、上記のボンベの例えを話した後に、こんな話を付け加えます。

「ボンベがあれば他の人と同じように生きられる、エラ呼吸ができるかどうかということじゃなく、他の部分で評価してもらえるのはわかってるけど、それでも、君は、自分の力で他の人と同じようにできたらいいと思うんだよね?」

「エラ呼吸ができなくても、水中で魚たちと暮らしている生き物は、実は他にもいる。クジラやイルカは、哺乳類だけど、ものすごい肺活量を身につけて、何分間も水に潜れるようになることで、水中で暮らす生き方を見つけたんだ。エラ呼吸をできるようには決してならないかもしれないけど、別の方法で補うことはできるかもしれないよ」と。

そのときに、私は、自分自身の母の話をすることがあります。

私の母は、幼い頃の負傷で右手の親指と人差し指を動かすことができません。

しかし、母は小学3年生でピアノを習い始め、音大に進学、卒業後は音楽の教師として定年まで勤め上げ、今年、音楽教室を開きました。

指を曲げられない母は、親指や人指で鍵盤を押す際に手首全体を動かす独特の弾き方で、素晴らしい演奏をします。

そんな母を、私はとても尊敬しています。

母が音楽を愛していることは間違いありませんが、それでも、母が音楽の道を選んだのは、指が曲げられなかったことと無関係ではないように思います。

母は、クジラになりたかったのではないか、とそう思うのです。

環境を整えることで、誰もが生きやすい世界を作ることはきっと正しいことで、私自身、そうした世界を作りたいと願っています。

それでも、人間は、そうした正しさだけでは生きられない、ときに不合理な選択をする感情を持った生き物であることも確かだと思います。

もちろん、クジラになることを強要することはあってはいけませんし、努力が報われるかどうかもわかりません、それに、クジラは個人の努力ではなく、種として進化を遂げたからこそ適応できたのも確かです。

それでも、私は、クジラになりたい人たちの味方でいたい、とも強く思っています。

きっと、できないことをできるようになりたい、と思う気持ちは、障害があろうとなかろうと、誰にでも備わった普通の感情だと思うのです。

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