越冬を終えて
#10年前の南極越冬記 2010/3/23
ちょうど10年前になる。当時、僕は越冬隊員として南極にいて、こんなことを書いていた。
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3月19日に日本へ帰ってきてから数日が経った。シドニー港でしらせと別れ、僕らは空路でひと足先に日本へと戻ってきたのだ。成田で出迎えてくれた、もう間もなく子供の生まれる妹の大きなお腹を見て、15ヶ月という空白の時間を実感した。1年前に昭和で別れ、すっかり普通になってしまった50次夏隊の仲間たちの笑顔が嬉しかった。家族友人、世話になった皆さんからのねぎらいの言葉と手の暖かさに、はずかしながら目が潤んでしまった。
いま、正直僕はすべてに戸惑っている。何度か電車に乗ってみた。歩く速さが他の人とかみ合わない。街中でふと足を止めてみると、僕だけ時間が止まっているように感じる。空が狭い。雲が低い。人工物が威圧するかのように僕を見下ろしている。その威厳を保つために、いったいどれだけの人間の手が、力が必要なんだろうか。そう考えると、途端に脆く危うい存在に見えてくる。あれだけ待ち焦がれた緑も、街中の緑からは新鮮さと力強さをあまり感じることができないでいる。
2月13日に昭和をヘリで離れたとき、上空から見た手を振り続ける一団は、広い大地に比べてあまりにちっぽけだった。「僕らは15ヶ月の間、こういうスケールの中で生きてきたんだ」と、そう思うと急に涙が溢れてきた。走馬灯のように、次から次へとこの15ヶ月間の出来事が蘇ってきた。やっぱり長かったんだと思った。
しらせに乗り込んでからは、緊張の糸が切れ、堕落した生活を送っていた。もう観測機器が止まることを心配する必要もない、もう雪の下に隠れたクレバスのラインを読みながら歩を進める必要もない、常に自然に対して感覚を研ぎ澄ましながら生きる必要もない、もう今は自分のことさえを心配していればいい・・・そう安堵しながら過ごした33日間の航海だった。
この15ヶ月の間に、普通ならば経験することができない沢山のことを学んだ。同時に自分の未熟さをも痛感させられた。「また南極へ行きたい」いま改めてそう思う。もしもそのチャンスがあるならば、今度は僕は越冬経験者という立場での参加だ。
昭和基地で開かれた僕ら50次隊の慰労会の席で、これまで何度も南極を経験した51次隊隊長から「僕は無条件で越冬経験者を尊敬します。越冬とはそういうもんです。」という言葉を頂いたとき、身が締まる思いがした。僕自身は果たしてその尊敬に値するのだろうか。そう思うと、すぐには手を挙げられない。今よりも自分を高めてから、自分が納得できるようになってから、もし叶うならばもう一度、次は恩返しをしに南極に帰りたいと思っている。
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おもえば南極でこの越冬記を書く以前は、ろくに文章なんか書いたことはありませんでした。当時の僕にとって「書く」ことは、閉鎖された環境のなかで自らを客観視するために必要な行為だったように思います。南極から戻った後のこの10年間で僕は、ヒマラヤや富士山頂、北極や砂漠など、さまざまな極地にある暮らしを踏査してきました。未踏の地に足を踏み入れるのではなく、その地に根を下ろして生きていく方法を知りたい。そんな思いを持って極地で生活を送ってきた日数はとうとう1000日を越えました。それでもやっぱり、あの10年前の越冬経験が僕にとって一番大切なものだったと思うのです。10年前の南極越冬記は、これが最後の紀行文となります。最後まで読んで頂きありがとうございました。