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ゆびさし夢子さん【記号】

 「あれ」
 買い取った本を棚に並べていると、一冊の本を持ったところで手が止まった。裏表紙にシールが貼ってあったのである。
 たわんだ円から一本線が四つ伸びており、上の二本の先には手袋が、下の二本の先には簡略化されたスニーカーが描かれている。それらは手足ということだろう。円の頂点にはアーモンドのような瞳がコラージュのように配置されている。
 シールの左下に『わごむマン』と印字されていた。このキャラクターの名前だろうか。イラストの雰囲気やシールの劣化具合からして四十年は前のものと思われた。シールは古ぼけて変色していたが、意外にもはがれそうな様子はない。
 「わごむマン」
 僕はぽつりと口に出してみた。
 わごむマン。輪ゴムに目と手足を生やして擬人化したキャラクター、ということだろうか。いや、それ以外に考えられない。
 どうしてこんなキャラを商品化しようとしたのかわからない。どれだけ昔でも、よほどキャラクタービジネスをナメていなければこんなものは世に出ないだろう。それとも、経営者の子供が描いた落書きを商品化するよう圧力があったとかだろうか。
 僕は試しにスマホで『わごむマン』を検索してみた。輪ゴムについての情報や輪ゴムを扱う通販サイトのページが複数表示されるのみで、『わごむマン』なるキャラクターの情報はなかった。僕は『”わごむマン”』と入力して再度検索した。ダブルクォーテーションで『わごむマン』を挟めばに完全一致する検索結果のみが表示される。しかし、検索結果は0件だった。少なくとも電子の海には『わごむマン』の情報はなかった。
 そのときになって僕はようやく思い出した。本を買い取ったとき、こんなシールが貼ってあっただろうか。
 
 
 
 
 
 その日の夜、浴室で身体を洗っていると妙なことに気付いた。浴室の鏡に『わごむマン』シールが貼られていたのだ。当然、そんなところにシールが貼ってあった覚えはない。しかも、ここのシールもずっと前からあったように古ぼけている。
 浴室を出ると、脱衣所の壁にも『わごむマン』シールが貼られている。
 それから、僕の後をつけるように──否、僕の先回りをするようにいたるところに『わごむマン』シールが貼られていた。
 食器棚にも。階段の手すりにも。トイレのスリッパにも。机にも。柱にも。窓にも。コップにも。
 『わごむマン』は増殖していった。
 「ちょっとりっくん、何なのあのシール」ダイニングで途方に暮れていると、何かを察した夢子さんが姿を現した。
 「いや、なんか本に貼ってあってさ……」
 「うわっ、りっくん、手!」
 夢子さんが僕の右手を指さして驚いた。見ればいつの間にか右手にまで『わごむマン』がいくつも貼りついていた。
 「夢子さん、なんだろこれ」
 僕はシールまみれの手を夢子さんに突き出した。夢子さんは珍しく眉間に皺を作りながら『わごむマン』シールを眺めた。
 「……妖怪、だと思う」
 「なんか自信ないね」
 「新種っぽいからね。見たことないやつは見たことないよ、私だって」
 「何するやつ? 『わごむマン』は」
 「それもわかんない。きっとりっくんにとってよからぬことだろうとは思うんだけど」
 「……あはは」
 「えっ、何? もうなんか影響出てる?」
 「いや、こういうことでも夢子さんが知らないことあるんだなって。なんか新鮮」
 「……なんか恥ずかしいなぁ」
 夢子さんはばつが悪そうに首筋をかいた。そして息を長く吐くと、いつもの飄々としつつも不遜な顔になった。
 「──ま、正体はわかんないけどこいつが新参ってことに違いない」
 どん、と夢子さんは床を踏み鳴らす。すると、夢子さんの影から何かが湧き出した。妖怪だった。だが、浮世絵から抜け出してきたかのようにその外見に現実感を感じなかった。ろくろ首、のっぺらぼう、その他有名無名の怪異たちが嵐のように家中をかけめぐり、『わごむマン』シールを剥がしてまわった。
 「新入りのくせして、先輩への挨拶がなってないんだよ」
 から傘小僧が僕の手をべろりと舐めると、その舌に『わごむマン』シールがすべてくっ付いていった。
 そして夢子さんが手を叩くと妖怪たちは手にした『わごむマン』シールごと青い炎になって消え去った。
 「ありがとう、夢子さん」
 「はい一件落着。……あ、でもちょっとまずいかな」
 「え?」
 「いや、妖怪って虚実があやふやな存在だからさ。生まれたての特にあやふやなやつを『消しちゃった』ってことは、逆説的に存在を証明しちゃったことになるわけで……」
 「妖怪として完成してしまったから、他の誰かのところにも現れるかもしれない、ってこと?」
 「うん。……ま、いっか。りっくんが無事なら」
 夢子さんは何もなかったかのように冷蔵庫の中を物色しはじめた。
 僕が恐怖をちゃんと感じることができるなら、今の夢子さんを怖いと思うのだろう。
 でも、僕に恐怖心というものがない以上、夢子さんは可愛くて素敵な僕の彼女なのだった。

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