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ゆびさし夢子さん【夢遊】

 眠りにつくと、魂とか心みたいなものが身体から抜け出すような感覚がある。そうしてぼくは病弱な身体から解き放たれ、夜空を飛びながら「今夜は誰の夢に入り込もうか」と物色しはじめるのだ。
 あれは駄目。夢の中まで仕事漬け。
 あれも駄目。ルサンチマンに過ぎる。
 あれは駄目。楽しそうだけど疲れそう。
 あれも駄目。淫乱なやつはちょっと。
 そうこうしていると、よさそうな夢を見ている人を見つけた。少なくとも今夜は穏やかで楽しい夢を見ている様子。ぼくはその人の夢に向かって自由落下していく。あらゆる感覚がフェードアウトしていく。

 気が付くと、ぼくは誰かの夢の中にいた。隣には夢の主であるアロハシャツの青年がぼんやりとした面持ちで立っていた。
 「君は……?」
 「ぼくはお客さんだよ。お兄さんの名前は?」
 「理一……」
 「理一さんだね、よろしく!」
 ぼくは10歳相応の笑顔を見せる。
 「よろしく……」
 「じゃあ、理一さんの夢の中を案内してよ」
 「……わかった」
 理一さんはぼくの手を握って歩き始めた。
 理一さんの夢の世界は本がそこら中に落ちている野原だった。何か本に関わる仕事をしている人だろうか。涼しい風が吹くたびに、草の青い匂いがして気持ちが良かった。
 ただ、空の色だけが不気味だった。暖色の絵具をいくつも混ぜ合わせたような形容しがたい色で、くすんだ色なのに辺りは妙に明るかった。
 「じゃあ最初はかくれんぼね」
 「いいよ」
 じゃんけんをして鬼を決める。理一さんが鬼だ。背の高い草をくしゃくしゃと踏みつけてぼくは逃げる。
 熱を帯びた木の陰に隠れて「もういいよ」と叫んだ。「はあい」と理一さんが叫んだ。
 木にもたれかかっていると、木から伝わる熱がじんわりと身体に沁みた。なぜ木が熱いのだろうか。夢の中のことを考えても仕方ない。
 風が吹いた。風にのってどこからか人々のはしゃぐ声が聴こえてきた。
 「見つけた」
 「わっ」
 いつのまにか理一さんがぼくの手を握っていた。
 「見つかっちゃった」
 「僕の勝ちかな」
 「そうだね、もう一回やろう! 次はぼくが鬼だ!」
 理一さんが小走りで隠れ場所を探しはじめたのを確認してから、ぼくは目を伏せて「もういいよ」を待った。草や木の葉が風にそよぐ音に混じって、きゃあきゃあとはしゃぐ声がぼんやりと聴こえる。
 「……もういいよ……」
 理一さんの声が聞こえた。どこに隠れたのだろう。
 声を頼りに辺りを見回すと、いかにも誰か隠れていそうな岩があった。ぼくはほくそ笑んだ。そこへ行く途中、あることに気付いた。先ほどのはしゃぎ声は、ぼくが向かっている岩の向こうにある崖から聴こえているのだ。
 「みいつけた」
 「見つかっちゃった」
 ぼくに肩を叩かれて、理一さんは笑いながら顔をしかめた。
 ぼくは声が聴こえた崖を見た。縦に走る亀裂の、真っ黒なその奥からはしゃぐような甲高い声が聴こえてくる。
 「どうしたの?」
 「あそこ……」
 ぼくは崖の亀裂を指さした。
 「何か聞こえない?」
 「あー、ほんとだ」
 理一さんは突然ぼくの手を取った。
 「面白そう、行ってみようよ」
 「えっ」
 理一さんはぼくを引っ張って崖に向かってずんずん進んでいく。
 こわい。なにかわからないが、なにかがこわい。
 亀裂に近づけば近づくほど、はしゃぐ声は大きく聴こえるようになった。そこで、ぼくは気づいた。
 はしゃいでいるような声は、苦悶の絶叫だったのだ。何の意味もなさない、苦痛によってしぼり出される金切声。それが遠くでははしゃぎ声のように聴こえていたのだ。
 それでも理一さんは亀裂に向かってぼくを引っ張っていく。いくら踏ん張ろうとしても、手を振りほどこうとしてもできない。夢の中で夢の主に逆らうことはできない。
 「理一さん、こわいよ」
 「そう? 僕は怖くない」
 理一さんに引っ張られるまま崖の亀裂に近づいていく。そうか。あの亀裂はその人の心の『禁止領域』、『心の闇』。他人はおろかその夢の主ですら安易に踏み込んではならない場所なのだ。
 ぼくはすがるように理一さんの名前を呼んだ。それでも理一さんはニコニコしながら亀裂に向かって進んでいく。

 「はい、そこまで」
 女の人の声がして、急に辺りが真っ白になった。空も大地も何もなく、まるでどこまでも続く白い部屋にいるみたいだ。
 目の前に真っ黒な女の人が座っていて、理一さんは彼女に膝枕をされている。
 「この人ね、『怖い』って感情がないからこういうことになっちゃうんだ。だからめちゃくちゃ危ないときはこうして助けてるんだけど、まさか知らない子がいるとはね」
 女の人がぼくを見た。綺麗でおだやかな顔なのに、なぜか背筋が寒くなった。
 「まあ、あんまり他人の夢なんか入るもんじゃないよ。これに懲りたら控えな」
 いつの間にかぼくはおねえさんの目の前に立っていた。
 「お帰りはあちらです」
 お姉さんはぼくにデコピンをした。

 ぼくは自分のベッドの上で目を覚ました。身体は寝汗でじっとりと濡れていた。時間は午前二時を少し過ぎたあたりだった。
 こうしてぼくはどこまでも自由な夢の世界から追い出され、病弱で不自由な肉体に閉じ込められた。
 眠ろうにも眠れない。楽しみを中途で取り上げられたときの、行き場のない不満感がぼくの身体を苛んだ。
 ふと、勉強机の横の本棚にある、誰かからもらって数ページだけ読んだ児童文学に目が留まった。
 「あれにしよう」
 本に身を脅かされることはないだろう。少なくとも、見知らぬ誰かの夢よりは。


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