ブレラン

弱者男性映画としての「ブレードランナー2049」

80年代に公開されたリドリー・スコット監督の「ブレードランナー」はリアリティある近未来SF映画、また人間の尊厳を問うた作品として映画史に残る
伝説的作品と評価されています。

それから30年後、未知の異星人との遭遇をきわめてリアルなタッチで描ききった秀作「メッセージ」を撮ったカナダ人の鬼才ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督によってその続編が製作されたのが本作「ブレードランナー2049」です。

本作の主人公、ライアン・ゴズリング演じる「K」は一作目のハリソン・フォードが演じたデッカード同様、逃げ出したレプリカントと呼ばれる人間と見た目は同じアンドロイドを見つけ出して始末する殺し屋のブレードランナーです。

ただ違うのは一作目のデッカードが実はレプリカント説があれど基本的には人間だったのに対して本作のKは始めからレプリカントであるという設定です。

Kは社会の歯車として常に人間の言うことを聞き黙々と仕事をこなさないといけない存在です。

弱者女性の問題は社会問題化されるが弱者男性の問題はあくまでも自己責任とされる。これは不公平なのではないか。Twitter上でもたびたび繰り広げられるのですが弱者男性による「俺たちだって痛みや悲しみを感じる立派な人間なんだ。俺たちの叫びを聞いてくれ」という訴えはついぞ受け入れられることはありません。

何故ならば彼らは「人間」ではないからです。彼らは痛みも悲しみも感んじることなく社会の歯車として従事すべき。どうやらこれが民意のようです。

「ダンダー・イン・ザ・ダーク」をはじめ女性であるヒロインが貧困や不幸に追い詰められていく。これはやはり大衆の同情を買い、評価されます。くわえて弱者男性の辛さをリアルに描いたとことでそんなものを誰が喜んで見るでしょう。同情や憐愍を集め思わず助けたくなるように進化した女性に対して男性はやはり可愛くないのです。

そこで鬼才ヴィルヌーヴは誰からも同情されず人間扱いされない弱者男性を人間と同じ見た目で感情も知性もありながら決して人間扱いされないアンドロイドの物語に置き換えて描ききりました(天才かよ)。

Kは買い物をして食物を買って食したりしてるようなので一応は賃金は貰ってるらしいのですが汚く小さいアパートに住んでおりハードな仕事内容の割には低賃金でこき使われてることがわかります。

そのみすぼらしい我が家で彼を待つのは仮想恋人であるA.Iの「ジョイ」です。アナ・デ・アルマス演じるその型は可憐そのものでありまさに理想の恋人です。これは萌えキャラのフィギュアやキズナアイなどのVtuberを愛でることが唯一の慰めである孤独な男性をリアルに想起させる描写です。

そんな八方塞がりのKですが微かな希望が生まれます。もしかしたら自分は人間から生まれた「人間」なのではないのか?

そこからKの自分探しの旅が始まります。

そして真実が明らかになった時、Kの望みは粉々に打ち砕かれます。やはり俺は「人間」ではなかったのだ。その時、感情を常に押さえ続けてきたKは「チクショォォォォォォーーー!!」と思わす叫びます。「人間」扱いされたい、愛して欲しいというKの切実な願いは無残に打ち砕かれるのでした。

後半において唯一の慰めであったA.Iのジョイが入った端末を眼前にて無慈悲に破壊されてしまいます。

これだけでもむごいのすがさらにそのあと、Kは街中で巨大なジョイがユーザーを誘い込もうとする広告を目の当たりにします。唯一の慰めであった彼女も、萌えキャラやVtuberがそうであるように誰にでも笑顔を振りまく大衆にとっての娼婦であることをまざまざと見せつけられるのです。やや長めのシーンであるこの箇所でKは巨大な広告塔であるジョイを痛切な表情で見つめます。

クライマックスの死闘のあとKは致命傷を受けてしまいその役目を終え、雪が降りしきるなか静かに息を引き取ります。

彼の「人間」扱いされたい、愛してほしいという悲痛な願いは結局は最後まで叶いませんでした。しかし、我々、観客の中で彼は確かに一人の「人間」、一人の「男性」として生き続けるのでした。

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