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和泉萌香「雨のなか眠っているおとこ」


 
 あなたはだれ? と聞いた気がする。ここではないどこか。夢のなかだったっけ。直接、そうやって聞いてみたかっただけだ。過去形でも、未来形でも。夢のなかの現実は、青色。そこだけの言語で、名前を名乗ってくれた。彼がその男に似ていたのか、その男が似ていたのか、どちらなのかは分からない。

 そうしなければいけないのだという考えに襲われて、玄関に溜まった小汚い大きな靴や、酒瓶などを足でのけ、建て付けの悪いドアを開けて、わたしはふらりと外に出た。お気に入りの黒いキャミソールに、あちこち破れかかってきたリーバイス。時刻は午後の十一時。黒々とした外は雨がふっていて、剥き出しの階段の下には硬い海がひろがっている。怖がりだから、どんなに気が大きくなっても、その海に落っこちたりはしない。ここに来るときは決まったように雨がふる。じょじょにデニムの裾が濡れて、まるで足枷代わりに。男に棄てられた見本のような姿で静かな街を歩いている。誰もいない。ポケットに入ったままだったしけった煙草に、ぎりぎり火がついた。街をすっぽり覆う巨大なグラスは、なみなみ注がれたアルコールが溢れ出るでもなく、ひびが入って割れてしまいそう。酔っ払った頭に、空の裂け目という考えが横切った。寒い。足の裏から伝わるアスファルトの感触にも、彼のことを思い出す。彼の肌はあんなに熱いのに。太陽が詰まっているみたいに熱くて、男特有の、硬い肌。酔っ払っている頭で、雨のふる目の前を見つめる。わたしは今、昼の時間よりも正常だ。正気であり続けているように思う。ひどく恐ろしく、目を背けたいのに、向こうから口を開いて待っている、言語も変わってしまうような、慄きが走るほどの素晴らしいなにかが、夜の片隅で合図している。あの男といると、そんな気分になる。皮膚が濡れ、冷たくなっていくごとに、それの確信は強まっていく。しばらく歩き続けると、寒さのせいで悲しくなって、涙が出てきた。理由もなく、みじめな気分。出ていきたいと思ったから、そうしただけの話。あの部屋にいても、外に出ても同じこと。水分が流れでてゆくと、体内の空洞を実感する。わたしのなかにぽっかりできたそれは、きれいな顔をした空洞だ。彼の顔かたちをしているに違いない。

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4,413字
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