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読書note:山本夏彦『無想庵物語』〜その1〜
かなり久しぶりの読書です。noteを始めておよそ3ヶ月、その間まともに本を読んでいなかった気がする。
されど気候も暖かくなってきて、眠っていた「ホンのムシ」が疼きだしてきたようです。
そこで手にしたのが、山本夏彦の『無想庵物語』。
著者山本夏彦は編集者で作家でコラムニスト。辛口コラムニストなどと呼ばれ、ファンも多かった。2002年に87歳で亡くなられて20年以上経ちますが、私淑する作家のひとり。こうして時折お会いしたくなる。
本書『無想庵物語』も十数年ぶりの再読。前は単行本で読みましたが、持ち歩くには文庫本がいい。なぜか両方持ってます。
『無想庵物語』のタイトルにある「無想庵」とは夏彦翁の父の友人で作家・詩人の武林無想庵のこと。彼と彼の周辺の人々を書き記した『無想庵物語』は、第41回読売文学大賞(評論・伝記)を受賞している。
『無想庵物語』は七章からなる。
Ⅰ スキャンダル
Ⅱ 妹みつ
Ⅲ 第十一指の方へ
Ⅳ Cocuのなげき
Ⅴ フランスへ
Ⅵ ダメの人
Ⅶ 晩年
結構多彩な登場人物でもあり、これを一回の感想文というか覚え書きみたいなもので終わらせるのはもったいない。7章あるから7回くらいに分けていこうかな。
もっとも、投稿記事数をこれで稼げるという姑息な考えも含ませていること、告白しておこう。
武林無想庵
武林無想庵(1880-1962)。本名磐雄。札幌の写真館の養子。実父はその写真館の弟子だが、写真館夫婦に子がなかったので磐雄が養子に迎えられた。養父母は東京にも写真館を経営。磐雄を溺愛したようだ。養父の盛一の名を継いでいる。
無想庵武林盛一は私の父露葉山本三郎の友で、武林は明治十三年生れ父は十二年生れの同時代人である。武林はながくフランスにいて昭和五年帰って久々で父を訪ねたら、父はすでに昭和三年に死んでいて、そこに中学二年になった少年の私がいた。見れば死んだ友と瓜二つである。友の子は友だと数え五十一になる無想庵と数え十六になる中学生は友になったのである。そのころ私は死ぬことばかり考えて、むっとして口をきかぬ気心の知れぬ少年だった。
これは冒頭の一節。著者と無想庵との関係ならびに当時の著者の心境を的確に記している。
この少年は世間を冷ややかな目でみている。第三者の視点で見ている。コラムニストの萌芽ここにあり。
なみの評論伝記と違うのは、書いている人山本夏彦と、書かれている人武林無想庵が旧知の仲であること。
作品や日記などから人物像を推察するのではない生身の人間の横顔がある。それは無想庵だけではなく周辺の人にも向けられている。
たとえば、老いらくの恋で知られる川田順と夏彦は会っている。しかし昭和五年五十代の川田に不遜な態度を感じた夏彦少年は、30年の時を経て老いた川田に冷たく接する。自ら料簡が狭かったとしている。
また、まだあげ初めし前髪の島崎藤村を夏彦はあまり良く書かない。姪っ子に手を出してはらませてパリへ逃げた、それを小説にして評判になり道徳家になりすましたと書いている。
もっとも武林無想庵もあまり褒められた男ではない。腹違いの妹を妊娠させている。
夏彦少年は武林無想庵を稀代の物識りとみた。無想庵は、相手が少年でも知る限りのことを語った。少年の返事は期待していないから、語って倦まない。
無想庵の口によくのぼるのは島崎藤村、蒲原有明、徳田秋声、正宗白鳥、小山内薫、川田順らで、彼らは夏彦の父の友でもあるから少年も聞くだけは聞ける。
無想庵は並の文士と違って数学にも明るかった。また身長172cm、体重75kgというから当時としては立派な体躯の持ち主だろう。
夏彦によると、この物識りの巨魁は知識をひけらかすことをしなかったそうだ。無想庵はモノを知っていることは何もならないことを知っているようだ。
夏彦少年は稀代の物知りを前に自分には学芸が向いていないことを知る。そしてモノを知ることとモノを創ることは別だと知る。
中平文子
大正九年武林無想庵40歳は中平文子32歳と結婚。仲人は田山花袋。結婚は武林無想庵が二度目、文子は三度目。
雑誌記者など経て文筆家でもあった中平文子と出会った無想庵は、そのころ札幌の土地を売ったお金で友人であるダダイスト辻潤と洋行するつもりだった。
そこへ、男より女が一緒のほうがいいでしょと文子がいう。
なるほどごもっとも、と無想庵。
ホントかしら、と文子。
それなら結婚して行こうということに。
まだ札幌に土地はある。いざとなれば売ればいい。文子はパリへ行きたかった。そして言っちゃ悪いが武林の資産に惚れた。
言っちゃ悪いついでに言わせてもらえれば、無想庵も文子も甘やかされて育ったところがあるようにお見受けする。
田山花袋の仲人で二人は結婚。大正九年、中国からヨーロッパへと新婚旅行。同年12月パリでイヴォンヌが生まれる。大正十一年にいちど帰国。
翌大正十二年、再びヨーロッパへ。こんなんでは、すぐに金はなくなる。
ロンドンで日本料理店をしていた川村泉と文子はねんごろになる。このあと、いろいろいきさつがあって、武林文子は大正十五年、川村泉に拳銃で撃たれる。
弾は頬を貫通し奥歯で止まったという。おそらく女性が護身用に持っていた小銃ではないかと夏彦は推察している。
武林無想庵は妻文子が川村と親しくしている様を「Cocuのなげき」と題して書いた。「Cocu」は妻を寝取られた男という意味らしい。ピストル事件の前に書き上げている。
このスキャンダラスな事件を少年夏彦は日本で新聞の報道などで読んでいる。その後、本人と出会うことになるとは夢見ることもなく。
つづく
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