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うつが嫌になる瞬間

うつ病中の吐露を人から叱られる。
これから死ぬとかなんとか、そんな仄めかしはしない。

だけど、人間不信になってることとか、そうなる気持ちを吐露しても、全く理解されず、叱られている時、心の中で時間が止まる。

「この人は、どこまで私の傷みを理解しようとしてくれているんだろう」と思ってしまう。いや、してないのかもしれない。発想がないのかもしれない。逆の立場なら、私もそんな風にしか、接することができないかもしれない。そもそもが、カウンセラー以外には求めてはいけない要望だろう。責める気は毛頭ない。

仮に考えてくれた末の、相手の悲しみや怒りだとして、私はそれらをどこまで受け止めて、是正したらいいのか、わからない。

正論や性善説を無責任に唱えられることが1番辛い。それができたら、苦労してないのよ。
それができる環境は、当たり前ではないのだよ。恵まれた環境にいなくちゃ、寄り添ってくれる相手も手に入らないものなんだよ。今あなたにそれができるのは、そういう場所にいるからで、そういう相手がいるからなんだよ。それがない私は、そのことを責められるに値するのだろうか。

解決策を示そうとして、自分に見えてる世界の体験したことしか知らない、想像する気がないタイプがこの例だと思う。

どうしたらいいか。
きっと、せっかく話してくれた正論を、性善説を、素直に受け止めて、その通りだねと言えばいい。それを、信じたらいい。また裏切られても、信じたらいい。それで相手は満足する。何度でも信じたらいい。失敗しても、信じたらいい。そうしてるうちに、裏切られないことも起こるのでしょう。か。。

でも、どのくらい重く考えて、寄り添うとか、いなくならないとか、いつでも頼れと、言ってくれるんだろう。

それを、もう信じることができないくらい、すでに傷ついてる私が悪いのだろう。人選を間違ってしまったってことなのだろう。助けになってくれた人には、当然なんの恨みも持っていない。感謝の気持ちだけがある。

でも、同世代は子育て中、配偶者ありが普通の世代。誰にだって優先順位がある。生活がある。そもそも迷惑をかけたくないのだ。
どんなに信頼している、頼りにしたい相手でも、私が頼ったら、相手の負担になることがある。どんなに本気で言ってくれていても、私の期待に添えないことがある。その期待は過度だったのだろうか。もうそれも私にはわからない。迷惑をかけていると感じた時点で離れたくなる。

そうやって、信頼したい人から順に失って、そして誰もいなくなった、が来るのだ。

結局は、自力で、誰に頼るでもなく、生きていくしかないって結論に至るのは、私の被害妄想や暴走なんだろうか。

すごく縁が切れる。
これでもかと人間関係が破綻する。
さよならが来てる。
寂しくて悲しい。

壊してるのが自分だと言う意識もある。
でも、壊したくなくて離れようとすると、相手の怒りを買ってそうなるのだ。

どうすれば良かったのか。
始めから頼んではいけなかったのだ。

でも離れたいものから離れる、いい言い訳ができた状態でもある。
人を羨むこともなく、堅実に、平和な人間関係の中で、ほんとはずっと、生きたかった。

そうなってほしい。
うつやめたい。つらい。

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