Raison d'être
最近、「優秀じゃない自分に価値を見出せない人」に関する話を某奢られ系ブロガーの記事で読んだ。
優秀じゃない自分に価値を見出せない、という意見はネットでよく見るがその度に共感する。
断っておくが、僕は自分のことを優秀だとは思っていない。アカデミアという世界で生きていれば、僕なんかよりも頭のいい人がごまんといることくらいはすぐにわかる。
正確に言えば、僕は「優秀になろうとしない自分」に価値を見出せないのだ。
不思議なのが、そういう価値観を持っている人のバックグラウンドを聞くと大抵親が厳しかったり、幼少期から過酷な競争(中学受験など)に晒されてきた、と言ったストーリが出てくる一方で、僕はそのような経験を全くしていないことだ。
もう一つ不思議なのが、僕は他人に対してはそんな価値観の尺度を押し当てようとする気にならないことだ。
例えば僕の弟はそこまで勉強が得意な方ではなかった。でも僕は彼が価値のない人間だとは全く思わない。それは彼が僕の家族だからというわけではない。彼が勉学以外の点で価値のある人間だからだ。
僕の弟は小さい頃から人助けをするのが好きだった。親の家事をよく手伝っていたし、飲み会とかでもお酌をして回っていた。今は看護師として患者の手助けをしている。すごいことだと思う。
弟ほど身近ではなくても、他人に対して価値がないとはそうそう思えない。某奢られ系ブロガーは人の悩みを聞くことでその人の助けになっているのだろうし、普通の会社員だって毎日長時間働いて日本の経済を支えている。
僕にはどんな価値があるんだろうか。
26年間の自分の人生を振り返れば簡単にわかる。僕の価値は「優秀であること」、正確には「物理学がそこそこできること」以外にない。
別に今までそれ以外を意図的に捨ててきたわけではない。むしろ良い両親のおかげでピアノ、サッカー、野球など、好きなことを色々とやらせてもらってきた。上っ面は社交的なので、沢山の人と関わってきた。
その上で断言できる。僕はチームプレーができるほど協調性があるわけでもないし、人助けに生き甲斐を感じられるほどの人格者でもない。それどころか、自分のエゴで色んな人を泣かせてきた。
そんな僕の人生の中に価値のあるものを探したとき、物理学しか見当たらなかったというだけの話だ。
僕は開き直っているのだろうか。多分違う。失望しているんだと思う。
自分の価値を実感するための手段としてみると、物理学は非常にコスパが良い。多少は勉強する必要があるが、自分が生み出した研究成果は「自然の理を解き明かした」という価値を持つ。これは他人の価値観に依存しないという意味で絶対的な価値だ。
だから論文を出版したとき、「まだ僕も捨てたものじゃないかもな」と思える。
だから研究していないと不安になる。
これからの人生、研究以外の価値を僕の中に見出せる日が来るのだろうか。多分そのためには、それ相応の努力が必要なんだろう。
研究に縋るしかない現状は確かに心許ないが、それ以外に時間を割く心の余裕がない。
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