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徒競走とアハ体験 よくわからないなりに #4


「自分には全く理解できない何かが起きている。」

これは私の子ども時代を貫く感覚であり、未だ抱える恐怖の根源でもある。実際、かなり理解力の乏しい子どもだった。算数とか国語とかの知力を問われるもの以上に、もっと日常的で切実な「状況から判断する」という漠然とした暗黙の了解的な事象への理解力が致命的に不足しており、今も得意な方ではないが、幼い頃は毎日をひたすらよくわからず生きており、それはわりかし怖い日常だった。

ただ、わからないことが多い日々というのは、時に面白いギフトをくれることもある。その代表として、アハ体験の頻度の高さ、そして、深さがあげられる。わからない時期が長ければ長いほど、理解できた瞬間は、とんでもない開放感を伴うものである。

例えば、徒競走。

以前も書いたが、私は徒競走がわからなかった。いつスタートして、どこに向かって、いつ終わるんだか、そういうことがわからないし、そもそも、何のために走っているのかがわからなかった。なので、運動会当日はヨーイドンの合図のあとは、先に走り出した級友の後をひたすらに着けていった。見失ったら最後、どこに行けばいいのかわからなくなる。わからなくなれば、私はこの聴衆の面前で泣くに違いない。それだけは避けたかった。

「あんた、足は速いのに、なんでかけっこはビリなんだろうね。」元体育教師の母からは何度もこう言われたが、私には意味が全くわからなかった。

この徒競走に大きな転機が訪れた。

小学4年生の時、体育測定で50m走の測定があった。明確な白線2本の間を、先生がいるところまで、一人一人が走り抜ける程度のルールは理解できたので、この時ばかりは安心して気持ちよく走った。その結果、思わぬ良いタイムを出してしまった私は、あろうことか運動会のリレーの選手の補欠に選ばれてしまった。補欠というところがいかにも中途半端だが、それでも私には事件だった。

リレーの選手というのは運動会で苦しそうに何周も何周もグラウンドを駆け巡る人たちではないか。しかも、なぜかカラフルな棒を握りしめているし、いつのまにかどこかで走る人間が入れ替わるし、いつ走り終えているのかも謎の集団だ。それだけではなく、何より私にとってリレーが恐ろしかったのは、全員やけに顎を突き出して走っているところだった。1年、2年、3年とリレーを見てきたが、思い出すのは選手たちのやけに突き出された顎であり、競技観覧中、顎ばかり気にしていた私にとって、リレーとは、カラフルな棒を握りしめ、先生が白い紐を出してきて止めるまで、やけに顎を突き出して、ひたすら駆け巡らねばならないという、狂気”を感じる競技だった。

その選手になぜ自分が・・・

徒競走のルールすらわかっていない自分に、リレーのルールがわかる術はなく、リレーと聞いた私は、自分の中で勝手に構築した得体のしれない競技への恐怖に心が撃沈した。

しかもリレーの選手は運動会までの3週間、ほぼ毎日放課後に練習しなければならないという。初回の練習に、私は沈鬱な気持ちで参加した。周りの級友は、リレーの選手に選ばれたことへの自信が笑顔に現れているし、毎年選ばれてベテランの貫禄に達している者も多い。確かに、ほとんどメンバーが入れ替わることのない小学校という枠の中で、突如足の速さが激変する者など少なく、リレーの選手に選ばれるメンツはだいたい決まっていた。そして、小学校では足の速い人は大抵人気者であり、そのオーラを見事に纏う彼らの中で、私は確実に浮いていた。

その歪みをいち早く察知したのが、リレー選手の中でも、特にリーダー格を務める同じクラスの男子A氏であった。

「お前、初めてじゃね?」

リレーのエースからの直球の質問に私は慄きながら、ただコクンとうなずいた。

「ルールわかってんの?」

これまた直球の質問に、私は無言でかぶりをふった。しかしこれはチャンス、リーダー格の彼から罵声を浴びて、さっさと補欠なんてクビになればよいのだ。そう思えば少し気が楽になり、彼からどんな扱いを受けようとも、覚悟はすわった。

ところがである、意外なことに彼はものすごく丁寧だった。まず、スタートラインを教えてくれた。そして、そこから例のカラフルな棒を持ってスタートすること。例のカラフルな棒はバトンと呼ばれていること。スタートしたら、トラックと呼ばれる湾曲したラインに沿って、一周を走ること。すると、次の選手が待っているので、バトンを渡せば出番は終了するとのこと。以上、リレーとは、バトンを、数人の選手が受け継いで、いかに早くゴールまで運ぶかを競う種目だということを非常にわかりやすく教えてくれたのだ。

私はしっかり理解ができた。

そして、理解できたリレーは、「掃除」のイメージに符号した。

ちょうどこの頃、私は「掃除」に関して画期的な発見をしており、心の片隅ではいつも「掃除」の事を想っていた。

何故雑巾で汚れを拭くと消えるのか、これは小学校入学以来ずっと抱いてきた疑問であった。が、ある日、教室の床のクレヨンらしき黄色い汚れを雑巾で拭き落としたところ、雑巾に黄色い汚れが移っているを発見した。

なんと!!汚れは消えたのではなく雑巾に移っていたのか!!

あまりに馬鹿馬鹿しい発見であろうが、私にはコペルニクス的転回級の気づきであり、深い感動にしばらく痺れてしまった。そして、雑巾を握りしめたまま呆然とする様子は周りから見れば掃除をサボっている以外の何ものでもなく、罰として私はグループの8枚分の雑巾を洗ってくるよう命じられた。しかし、渋々一人でバケツを水道まで運んで雑巾を洗い始めたところ、例の黄色い汚れが今度は水に溶けて流れていくのを目にし、私は再び高揚した。

掃除って、雑巾を使って、汚れを床から水に移して流す事だったのか!!!

いちいち大袈裟なやつと思われても仕方がない。だがしかし、この時の発見は、今も身体に残るほどの心地よい衝撃で、強く印象に残る壮大な出来事だった。

A氏からの説明を聞き終えた私の脳内では、「一つのものを、次から次に、人や物を介して移動させていく」という点で、リレーと掃除が完璧に合致して、深いアハ体験が発生していた。

A氏が「ルール、わかった?」と確認してくれた時、「うん、わかった!バトンはつまり汚れだね!」と答えてしまった私には、こうした背景があったのだ。

この時、もちろんA氏は「はっ?」と思っただろう。しかし聡明な彼は小4にして既に"流す"というテクを持っており、次の発言は、「じゃ、一回走ってみる?」であった。

実際走ってみると、わりかし単純な競技だと感じた。しかし同時に、全く興味が持てなかった。バトンを運ぶことにも、運ぶ速さを競うことにも、何一つ意義や魅力を感じられなかった。これなら、雑巾を使っていかに早く汚れを水に流すかを競う方が楽しい気がした。

2、3回走ってからA氏は、「あんまリレー向いてなさそうじゃん。やりたい?」と聞いてきたので、私はモジモジしながらも至極正直に「やりたくない」と言うことができた。この後、確かA氏が担任に掛け合い、なんだかんだで私は無事補欠から外されたのである。

そして、このリレーの選手補欠騒ぎは良き副作用を残してくれた。

明確にリレーのルールを理解した私は、自然に自発的に徒競走のルールを理解することができ、その年の徒競走で一位を獲ったのである。

これは大変嬉しかった。ただ、ここで大事なのは、一位が嬉しかったのではなく、自分で理解したことを実行できたという点である。一位の選手の体操服に貼られる金のシールが、私には「よく理解できました」という証に思えて、筆箱に貼り替えて、かなり長い間大切にした。

さて、こうして書きながら改めて振り返って驚くのは、A氏の、教師としての素晴らしい素質である。新参者へのアンテナやストレートな態度、わかりやすい説明、出したい結果へ対する明確な構え、まずは試してみるという発想、そして、本人の気持ちを問い、選択を尊重する気概 etcetc...

「あんまリレー向いてなさそうじゃん」という時の言い方も、咎めや見下はなく、私の様子をみて感じたままを述べていたので、私も至極素直に受け取れた。何より、足が速い=リレーの選手という安直な判断を採用せずに、適性を見極めた彼の慧眼は今持って尊敬に値する。

結果として私は、一人では決して辞退を主張できなかったであろうリレーを、彼とのやりとりによって選択することができ、同時に、彼の指導から、徒競走とは何かを自分の頭で考えて理解する素地ができたわけで、これこそ学習の鑑ではないだろうか?

私にとって彼はおそらく、初めて恩師と呼ぶにふさわしい人物だったのだろう。

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