「自己」肯定感について-分人主義の視点から-

●はじめに


近年、「自己肯定感」という言葉をよく見かける。
本屋さんに行けば「自己肯定感を上げる方法」のようなタイトルの自己啓発本が所狭しと並んでいるし、Youtubeで検索すれば「私なりの自己肯定感の上げ方」のような動画が何万回も再生されている。

かく言う私も、この「自己肯定感」という言葉に長年振り回されてきた。
高校の頃は自己肯定感が低いことを自称していたし、「自分で自分のことを好きになれたら、どれほど人生が楽しくなるだろうか」などと考えることもあった。そこで、先述したような自己啓発本や動画を見漁ってみたりもした。しかし、そこで語られるアドバイスは「ありのままの自分を受け入れてあげよう」「ダメな自分ごと愛そう」など抽象的でなかなか受け入れ難いものが多く、結局何も変わらなかった。

ところが、紆余曲折を経て、私はこの「自己肯定感」問題を解決した。
ここにその答えを示そうと思う。
この問題との折り合いのつけ方は人それぞれだとは思うが、この文章が少しでも「自己肯定感」に悩んでいる人たちの参考になればいいな、と思う。

●「自己肯定感」は上げなくていい。


まず、私の考えを簡潔に述べると、自己肯定感を上げる必要はない。自己肯定感というものを気にしなくてもいいような状態がベストである。
あなたの周りにも「この人自己肯定感高そうだな〜」という人が何人かいるだろう。その人たちを思い浮かべながら、少し考えてみてほしい。果たして彼らは、そもそも「自己肯定感」という言葉を知っているだろうか?知っていたとして、「自分は自己肯定感が高い」ということを意識して生活しているだろうか?

おそらく答えはNOであろう。一般的に「自己肯定感が高い」と言われる人たちは、たぶん「自己肯定感」というものをそもそも意識していない。もし「自己肯定感が高い」ことを仕切りに自称している人がいるなら、その人はただのナルシストであろう。ナルシシズムはいわゆる「自己肯定感が高い」状態とは別物であり、低い自己評価が根底にある一種の躁状態であると私は思う。

少し話が逸れてしまったが、私がここで考えたいのは、そもそもこの「自己」肯定感という概念の捉え直しである。
つまり、そもそも「自己」とは何なのかということがはっきりと分からなければ、「自己」肯定など不可能ではないか?というのが私の考えである。


●そもそも「自己」とは何か


ここからの論考は、小説家である平野啓一郎氏の著作『「私」とは何か 「個人」から「分人」へ』において紹介されている「分人」という概念を踏まえている(詳細は後述する)。ここではまず「個人」という概念について検討していきたい。

現代において、「自己」は「個人」であるということが前提になっている。ところが、この大雑把な「個人」という概念が、(本来多面的な)自己という存在を捉えるにあたって大きな障害となっているのである。

「個人」という概念は今でこそ当たり前のものとされているが、この概念が日本に輸入されたのは文明開花のとき(およそ1870年代あたり)である。さらに「個人」の起源を辿っていくと、歴史は西欧の市民革命(フランス革命:1789年)まで遡る。つまり、日本における「個人」の歴史はせいぜい150年ほどであり、その起源である西欧に目を向けたとしても、たった200年ほどの歴史しかないのである。現代では当たり前に人間存在の前提とされている「個人」概念であるが、人類の長い歴史から見れば、実は意外と最近作られた概念なのである。

先ほども述べた通り、「個人」という概念はあまりに大雑把すぎる。この大雑把すぎる「個人」概念を前提にして「自己」肯定を行おうとするのは、そもそも無理な話なのである。
例えて言うならば、

「食べ物」のことが好きになりたい!
でも「食べ物」の中には私の嫌いな野菜も漬物もあるから、やっぱり「食べ物」は好きになれない...

と言っているようなものである。好きになろうとする対象があまりに大雑把であるため、無理矢理肯定しようとしてもやはりどこかで無理が生じてしまうのである。
先ほど「自己肯定感が高いとされる人は、そもそも自己肯定感なんて気にしていない」と言ったのは、「食事を楽しんでいる人は、そもそも『食べ物』全体を好きになろうなんて思っていない」というのと一緒である。
では、「個人」という大雑把な捉え方の代わりに、どのような枠組みを用いれば良いのか。ここで役に立つのが、「分人」という概念である。


●「分人」という概念


あなたは、相手や状況によって自分の振る舞いが変わっていると思うことはないだろうか?親の前での自分、学校や職場での自分、幼馴染の前での自分、知り合いの前での自分...全て同じように振る舞っている人はいないだろうし、人格が変わったかのように全く違う振る舞いをする人もいるだろう。
今まで通り「個人」という概念を前提とすれば、人や状況によって振る舞いが異なることは、「偽りの自分」「仮面を被った自分」であるとしてマイナスに評価されることが多かった。しかしながら、この「相手や状況によって振る舞いが変わる」ということを肯定するのが「分人」という概念であり、分人主義である。

分人主義では、(相手や状況によって流されない)確固たる「本当の自分」というものを想定しない。相手や状況によって変わる自分は、全て「本当の自分」であり、ゆえに「偽りの自分」や「仮面を被った自分」というものも存在しないという考え方である。
また、「分人」は相手や状況によって生まれるものなので、「この人と一緒にいると出てくる自分の分人は嫌いだけど、別の友達と一緒にいるときの分人は好き」というように、「自己」という概念の中身を細かく分解することができる。そのため、無理に嫌いな分人を好きになる必要もないし、好きな分人を嫌いになる必要もない。
ここまで考えれば、もはや無理に「自己肯定」ということも考えなくてよいことがわかるだろう。大事なのは、「誰と一緒にいるとき/何をしているときの分人が好きか(あるいは嫌いか)」を知ることである。
先述した例えで言うならば、「自分がどの食べ物が好きで、どの食べ物が嫌いか」を知ることが、食事を楽しむことにつながるのである。

●おわりに

私の考えでは、近年よく目にする「自己肯定感」という概念は、そもそも前提として大雑把な「個人」というフィルターを通して人間を捉えているから問題なのである。この記事が「自己肯定感」の沼にハマってしまっている人の救いに少しでもなってくれれば嬉しい。
また、本文中でも言及したが、この「分人」という概念を提唱したのは小説家の平野啓一郎氏である。恐ろしいほどに「個人」というものが当たり前の前提とされている社会で、分人主義という視点は、しばしば言語化できずにもやもやしてしまう、生きづらさのようなものを解消する大きなツールになるのではないかと思う。
分人主義が、もっと人口に膾炙する考えとなり、少しでも多くの人の生きづらさが解消されることを願っている。
この文章では分人主義について説明し切れていない点も数多くなるので、時間がある方はぜひ、『「私」とは何か 「個人」から「分人」へ』を読んでみてほしい。
そもそも「個人」という概念は、原理的に生きづらさをもたらすものであるのだが、それについてはまた次の記事で述べようと思う。


ここまで読んで下さり、ありがとうございました。ではまた。

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