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感情と論理について

*これを検討することのメリットについては最後に示したので、
「そんなこと考えて何の意味があるの?」
と思った人は、そこを見て読むかどうか判断してください。

「感情」と「論理」は、二項対立として語られることが多い概念である。
「右脳派?左脳派?」
「あなたは感情的?論理的?」
「文系は感情的で理系は論理的」
「女は感情的で男は論理的」
など、感情と論理を二元論的に対立させて捉える言説は枚挙に暇がない。

これほどまで両者が対立する概念として位置付けられているため、
感情と論理が対等に並列される概念である
ということを無意識のうちに前提としてしまっていることが多いように感じられる。
ここで改めて考えたいのは、
「果たして感情と論理は対等なのだろうか?」
という命題である。
先に書いてしまうと、
感情と論理には明確な上下関係が存在し、感情が論理の基盤となる
というのが加藤慎也の結論である。
言われてみれば当たり前だと思う人もいるかもしれないが、
この当たり前のことが実は意外とあまり意識されていないのではないか?と加藤慎也は思ったので、今回このような問いを立てたのである。

●「納得」について
論理という概念を考えるにあたって、まず検討しなければならないのが「納得」である。なぜかと言えば、全ての論理は他者(あるいは自分自身)を納得させるために構築されるからである。納得を目指さない論理は「論理的」になり得ないし、自らも納得していないような論理はただの詭弁である。
そして、この「納得」というものは、極めて感情的なものである(!)
これらのことは全て当たり前のことだが、意識してみると意外にびっくりする。
つまり、論理的なものはその性質上、極めて感情的な「納得」を志向し、それを志向しない論理というのは存在し得ないのである。

「納得」をさらに細かく考えてみると、
①身体化された納得
②身体化されていない納得

の2種類が存在する。
ここでいう「身体化」とは、実際に何かを経験することを指す。
そして、「身体化されていない納得」よりも「身体化された納得」のほうが感情に強く触れるため、より「納得度」が高くなるのである。
ここでは具体的に、「パンを売る」という行為について考えてみよう。

まず、最も身体化されていない納得を目指す論理(もはや論理とは言い難い)が、
「このパンを買え」
である。
言われた方は、「えー、じゃあ買ってみよっかな〜」と納得するわけがない。
納得度は最も低い。
ちなみに、
「今日は天気がいいから、このパンを買え」
のような破綻した論理もこの部類に入る。
これも納得度はかなり低いが、お酒に酔っているなどして判断力が鈍った状態であれば、この論理(のようなもの)に騙されてパンを買ってしまう人もいるかもしれない。

次に、仮想的に身体化を行うことで納得を目指す論理を考えてみる。
「このパンは中がモッチモチで(仮想的な視覚と触覚)、すごく芳醇な香りがするんですよ(仮想的な嗅覚)。さらに身体にもいいんです!ぜひお1ついかがでしょうか?」
以上のような論理である。
このように言われれば、さっきよりは買う人も多くなるだろう。納得度も比較的高い。
さらにこの手法のポイントは、あくまでも「仮想の」身体化であるという点だ。実際に体験できないという限界性はあるものの、商品を実際以上に魅力的に思わせることも可能である。

最後が、最も身体化された納得を目指すやり方である。これは、
「このパンは中がモッチモチで、すごく芳醇な香りがするんですよ。さらに身体にもいいんです。実際に食べてみてください!」
というような論理である。
実際に食べてみて、仮想の身体化を通して得た感覚と、現実の感覚に相違がなければ、間違いなく納得してパンを買うことができる。もし相違があれば、納得してパンを買わないという決断ができる。
この身体化された納得には嘘がなく、故に最も納得度が高い。

実生活において
さて、ここまで検討してみると
感情と論理には明確な上下関係が存在し、感情が論理の基盤となる
ということがお分かりいただけたかと思う。
しかしながら、「そんなことを意識した所で何が変わるの?」と思う人も多いのではないかと思う。その疑問に答えると、以下のようなメリットが挙げられる。

・騙されにくくなる
相手が何かしらの論理で自分を説得しようとしてるとき、その論理は「どこまでが仮想の身体化か?」「実際に身体化されて納得できているのか?」という視点で考えてみると、他人に騙されてにくくなるのではないかと思う。
逆に言えば、他人を騙すのも上手くなるかもしれない。
仮想の身体化はいくらでも嘘がつける。
目で見たものだけがリアルだろ!

・相手に上手く自分の感情を伝えられるようになる
これは、「どのように相手を身体化させるか」という視点で考える。自分の感覚を言語化して共有したり、できるなら実際に体験してもらったりすると、より納得してもらいやすい。
ただ、体験するものによっては人によって感じ方に大きな差がある(例えば香りや音など)こともあるので、より正確に自分の感情を伝えたいのなら、感覚を言語化する方が伝わりやすいかもしれない。

・「論破」しなくても、建設的な議論ができるようになる
論理が感情を基盤としていることを考えれば、「論破」ということが自分の感情を押し付ける行為であることが理解できるだろう。
ひろゆき氏が予め決められた立場で相手を論破するという趣旨の番組があるが、それを見れば「論理」というものがどれほど感情に左右されるものであるかがよく分かる。
議論において大切なのは、「自分の感情を押し付けること」ではなく、「相手の感情を理解しようとし、自分の感情を相手に理解してもらうように努めること」である。
自分の感情を押し付けるだけなら、暴力で事足りる。

・自分自身への嘘に気付くことができる
誰かと口論になっているときや、誰かに対して悪口を言うとき、「今俺めちゃくちゃなこと言ってるな…」と思うことはないだろうか。加藤慎也はよくある。このことが自覚できている場合はまだ良いのだが、自覚せず自己欺瞞に陥ってしまうことケースもある。
こうなってしまうと、本当は自分が間違っていると心のどこかでは分かってるのに、引くに引けなくなってどんどん敵対する人を増やしてしまったり、修復不可能なくらい人間関係を壊してしまったりする。
その論理の元になっているのは感情なのだが、その感情を自覚せずに論理を振り回しているうちに、根底にあった自分の感情から目を背けてしまいたくなる。そのうちに、自分の本当の気持ちが分からなくなってしまう。
自分の語る論理の基盤にはどんな感情があるのか?ということを意識することで、自己欺瞞や自己矛盾、自己嫌悪を防ぐことができるのではないだろうか。


と、以上のように、意外と見落とされがちなこの感情と論理の関係について考えてみると、よくも悪くも振る舞い方を変える余地がでてくる。
このような原則は、色んなことに当てはめてみたり応用できたりするので、考えてみると結構楽しかったりする。

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