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社会における「我慢の総量」保存の法則

先にお断りしておきますが、今回はフェミニズムとはあまり関係が無いお話です。

ですが、以前に取り上げた「物言わぬマイノリティ」に通じるものだと感じましたので、取り上げてみることにしました。


禁忌を乗り超えることで生まれる、新しい禁忌

先日ニュースでも話題になっていた、性自認が女性の人が女性トイレを利用することに関する意見と炎上、についての話です。

ご存知の方も多いと思いますが、この件に関しては、LGBTQの支援団体などを中心として激しく抗議の声が挙がっています。

その中で実例としてたびたび挙げられているのが、経済産業省に勤めていた性同一性障害の男性(性自認は女性)が、女性トイレの使用に関する制限を受けたことなどで精神的苦痛を生じたということで裁判を起こし、勝訴したという出来事です。

付け加えておくと、この方は女性の服装で勤務することを以前から許可されており、裁判所の指摘でも「具体的な事情や社会的状況の変化を踏まえて判断すべき」という条件がついておりまして、性自認が女性であればどんな状況でもOK、というお墨付きが出たですとか、そういう意味の判決ではないと思われます。

さて。
山谷氏の発言に関する議論は、ここでは本題では無いので避けておきます。

仮定を含めた話として、

「誰でも自らの性自認のトイレや浴場を使って構わない」

という世の中が実現した時に、それによって新たに我慢を強いられなければならない人の気持ちは、どう折り合いをつければよいのか?という点です。

加えて、そうしたことを「考えること自体がタブーだ」とさえもされるような潮流が、身近に迫っていることへの危機感です。

今のうちに提言しておかないと、そのうち議論することすら難しくなるのでは、と心配になりましたので、まとめてみようと考えた次第です。

***

では、ちょっと想像してみてください。

あなたは女性で、公共の場にある女性トイレを利用しようと中に入りました。
するとそこに、男性の格好をした髭面の、どこからどう見ても男性にしか見えない人が立っており、個室の順番待ちをしていました。

彼(ここでは便宜上「彼」と表しますが、差別の意図はありません)は、性自認が女性、戸籍上は男性で、日常では仕事の都合上、カミングアウトもしておらず、やむをえず男性の格好をして過ごしていますが、心は女性であるため、男性トイレを使用することに抵抗感があり、プライベートではなるべく女性トイレを利用していました。

あなたは驚きつつも、
「ここは女性用のトイレです。何をしているのですか」
と尋ねると、彼は少し申し訳なさそうにしながら、しかし堂々と、
「私は性自認が女性なのです」
と言って、先述の事情を簡略に、でも丁寧に説明し、こちらのトイレを使いたいのだと主張しました。

その様子は真剣で、聞いた限りでは嘘を言っているようにも思えず、説明も理にかなったものでした。

周りにいる他の利用客を見ると、皆だまって俯くか、素知らぬ顔をしています。
その場の全員が容認しているのか、単にトラブルに巻き込まれたくなくて黙っているだけなのかは分かりませんが、ひとまずその場で声を上げているのはあなただけです。

あなたは困惑しながらも、
「…わかりました」
と言って、彼の後に並びました。

その後はまったく何のやり取りもトラブルも無く、それぞれが穏やかに用を済ませてトイレを後にしました。

***

・・・いかがでしょうか?

ここで重要なのは、「あなた」にも「彼」にも、全く悪意は無い、ということです。

悪意は無いけれども、これを読んだ少なからぬ人の心に、モヤッとしたものが残るのではないでしょうか?

ここではそれを、「我慢の移譲」と呼ぶことにします。

自らが自認する性別として生きられないことは苦痛に違いありません。
「彼」はきっと、日常生活でさまざまな我慢を強いられていることでしょう。
プライベートで女性トイレを利用する時には、彼はきっと、その我慢から解放されているはずです。

けれども、その代わりに「あなた」が我慢をする結果になっています。
我慢はどこかへ消えたのではなく、彼からあなたへ移譲されただけ、になっています。


そして、あなたは一体、何について我慢しているのでしょうか?

見た目が男性の彼が女性トイレにいることへの違和感?
彼は本当に性自認が女性なのか、という不信?
もしそうだった場合に、態度を変えられたら、という不安?

我慢の要素は、色々とあるかと思います。

ですが、おそらく一番の我慢は、

「それらを今ここで主張することは、『よくないこと』ではないのか?」

という、真面目で誠実な人間ほど強く感じてしまう、社会や倫理に対する責任感のようなもので、声を挙げるのは悪いことだと気持ちを封じ込めてしまうこと、言うなれば、

「我慢することを強要されても、それに抗えないことへの我慢」

ではないでしょうか?


我慢の総量は変わらない。誰がどれだけ受け持つか、のみ。

もちろん、移譲された我慢を受け取らず、「彼」に食ってかかり、自分からは退かない、という人もいることでしょう。

では、そのように「我慢しない人」以外の人は、みんな我慢などしていない人なのでしょうか?

もちろんそんなことはなく、実際には2つのパターンに分かれることでしょう。

すなわち、

「①本当にまったく我慢していない人(彼を手放しで容認できる人)」

と、

「②本当は我慢したくないのだが我慢している人(容認し難いが、声を挙げられない人)」

です。


もちろん、世の中に①の人しかいなければ、話は丸く収まるかも知れません。

ですが、物の感じ方、捉え方といった価値観は、人それぞれであることが許されています。
多様化が叫ばれる現代であればなおさらです。

「世の中には否定されるべき価値観もある」という人もいますが、どんな価値観が否定されるべきかの判断は完全に主観です。
司法の判断に頼れないものの場合、何を生かし、何を排除するかなどという判断をする権利は、創造主でもない限り誰にも無いでしょう。

人の価値観を変えるのは、不可能とは言いませんが恐ろしく難しいことです。
ましてや、社会全体の価値観を統一する、などというのは、歴史上さまざまな政治家、独裁者、宗教家、学者、文化人といった人達が試みて、いまだ誰も成功したことはありません。

では、多様な価値観をもった人間であふれる社会において、一方的な「我慢の移譲」が起きないようにするには、どうしたらいいのでしょうか?

***

世の中の全ての問題は、

・問題となっている事象
・原因の分析
・問題を形成している事物
・ステークホルダー(その問題に利害関係を持つ人間全て)

といった事柄を丁寧に切り分けてから、まずは

・どのような解決方法があるか

を議論した上で、

・その中で最善の解決方法は何か

を話し合って決定してゆくのが最良の道でしょう。


ですが、しばしば世の中では、切り分けるどころか、一番最初の時点で、

「そもそも問題視することがおかしい」
「問題だと思わなければいいだけの話ではないか」
「問題視しようなどという感覚が間違っているのだ」

と言われることがあります。

今までの世ですと、こういった話は政治上、例えば政治家の汚職問題など、いわゆるマジョリティと呼ばれる層が、反対の声を無視して、強引に何かを推し進める時に使う常套句だったように思います。

しかし近年、「マイノリティの声を聞いて欲しい」と叫ぶ人達の中に、こうした物言いが少なからず見受けられます。

先にお話したことを踏まえると、

「おかしいと考える、その価値観こそがおかしい」

といった論調ですね。

***

我慢は消えるのではなく、移譲されるだけ、という話をしました。

でも、自分の価値観では許容できないものを受け取れば、今度はその人が同じような我慢をするだけです。
これでは、「彼」の問題は解決したとしても、他の誰か、それも何より、

「ここで『我慢できません』と声を挙げるのは、自分勝手な悪い考えではないのか?」

と悩んでしまうような真摯な人間こそが、我慢を強いられることになります。


ときどき、わからなくなることがあります。

「弱い人間」とは、はたして何なのか?

我慢できずに声を挙げた「弱い集団」から譲られた我慢を引き継ぐのは、はたして「強い集団」なのか?

ただ単に、声を挙げられなかった「弱い集団」ではないのか?

と。

***

すみません、何だかポエムみたいになってしまいました(汗
軌道修正し、最後にまとめとして、我慢を世の中に分配する方向を探ってみましょう。


我慢は消えないが、再分配はできる。

我慢の分配と言いましたが、別に難しい話ではなく、単に世の中の全員がなるべく嫌な思いをせずに過ごせる方法を考えましょう、というだけの話です。

ただし、「なるべく」と付けたのがポイントです。

トイレの例で言うならば、昨今、公共の場で整備が進んでいる「みんなのトイレ」「誰でもトイレ」といったものが解決策の一つとして有りますね。

とはいえ、「彼」にとっての最良は、「女性用トイレを使わせてもらうこと」であるのは間違いないでしょう。

「男性用トイレを使わなくて済む」という我慢は解消されても、多少のモヤモヤが心の中に残るかも知れません。


ですが、ここで、冒頭に述べた経済産業省の裁判における、

「具体的な事情や社会的状況の変化を踏まえて判断すべき」

という、裁判所からの指摘を思い出してみます。

この裁判のように、同じ職場で長年一緒に働いている仲間であれば、「具体的な事情」を知っているわけですから、女性用トイレを使うことに対して、周囲が適切な判断を下すことが出来るでしょう。

けれども、公共の場では、当人の「具体的な事情」を知っている人が周りにいません。
そうした場では自分の言葉で説明しなければなりませんし、自分自身もトラブルに巻き込まれる可能性があります。

ですので、そういう時だけは当事者も「なるべく」我慢をしていただければ、というところではと思います。


では、これによって周りの人間は何も我慢をしなくてよくなるのか?

当然ながら、そんなことはありません。
我慢は形を変えて残っていますし、ちゃんと分配されます。

例えば、新しい設備を設置するには、必ず公共の何かが使われますよね。
これが駅のトイレだったならば、鉄道会社はこの新しいトイレを設置する予算と場所を確保しなければなりませんし、予算が過剰になれば、利用客は運賃の値上げなどといった我慢に協力することになるでしょう。

また、駅における他の設備、例えばバリアフリー化のためのエレベーターやスロープの設置などが遅れるといったことも起きるかも知れませんが、弱者には優先順位をつけるべきではない、という前提であれば、そうしたものも皆で許容してゆかねば、です。

つまり、新しいものを世の中に追加するために、みんなで少しずつ我慢をしましょう、ということです。

大事なのは、先ほどの「なるべく」の話のとおりで、今まで我慢を強いられてきた当人も、その「みんな」に含まれる、という点です。

それでも、冒頭に挙げた「彼」と「あなた」のように、日常の中でいきなり精神的に追い詰められるような我慢などは回避できるはずで、個人の負担はかなり軽減されることでしょう。

全体が満遍なく、かつ滞りなく進むために、全員が少しずつの我慢を許容し、代わりに少しずつ楽になる、というのが、理想の社会ではないでしょうか。

***

といった感じに、我慢というものは

「0か100か」
「今ここにある100を、どうしたら0に出来るか」
「この我慢を、どうやって、誰に押し付けようか」

では、一向に解決には向かいません。

でも中には、

「私たちは今までずっと我慢してきたのだ!」

という人もいるでしょう。

ではそれを受け取った人が、100年ほども我慢したのちに、

「私たちはずっと我慢したから、これはお返しする!」

と言えば、受け取ってもらえるでしょうか?
そんなおかしな話はないですよね。

ですから、0か100かではなく、

「私たちはこれだけ我慢している」
「それは確かに多いだろう。でも、私たちも我慢が無いわけではない」
「ではそれを上手く分配して、それぞれの我慢が出来るだけ少なくなる方法を考えよう」

であれば、話し合いのテーブルにも皆が着きやすくなります。

あらゆる立場の人が、それぞれいくらかずつの我慢を持っている、ということを全員が誠実に認め、それが均等になるような社会を目指す、というのが、最も建設的ではないでしょうか。

***

争いというのは、夫婦喧嘩から戦争まですべからく、

「自分だけが損をしている」
「あいつらだけが得をしている」

という、勝手な持論の押しつけが発端になることが世の常です。

目の前にいる相手が、何の我慢もしていない、などと思わずに、お互いを思いやれる社会であって欲しいと願います。

(了)


最後までご清覧いただき、誠にありがとうございました。


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