不器用だな、と心から思った修学旅行の話。


体調を崩した。修学旅行一週間前に声が出なくなったとき漠然と「行けないかもな、でもできるなら行きたいな。お金払ってるし。」とベッドの上で思っていた。
ひとは常にお金への価値観から行動しているのかもしれない。いや、そうかも知れないけど、本当は行きたいと思っている自分を認めることができなかった。実をいうと班活動ではどうせ浮いてしまうことはわかっていた。温度差がある。常に冷静で、楽しむこともできないような人間は学校でのグループ活動には向いていない。その班員4象限マトリクスで分類すれば、私以外は同じ枠に入るだろう、と思えるぐらい準備段階から疎外感を感じていた。どうせ疎外感、孤独感を感じてしまうのに行きたいと思ってしまった理由はなんなんだろう、思いながら寝返りをうち、そのまま布団に溺れた。


結論から言えば修学旅行には行くことができた。そもそもの気がかりと薬と体への不安、手荷物として預けられない彼らを機内に持ち込み、忘れていた離着陸への不安も抱え、6時間半ほどの旅のお供を探していた。搭乗してから離陸までには巣作りをしてもまだ時間が余っていた。離陸して気づいた。咽頭浮腫は治ったかもしれないが、その代わりに鼻水が私を襲っていた。ということは、耳が終わる。と思ったのだが、日本での離陸は記憶にない。登り始めた段階で眠っていたから、そこまで支障がなかった。そのまま映画を3本見た。映画は心をうつす鏡である。と私は考えている。一本目は絶望と再生と強欲さ、ゆえの恐怖を感じた。主演の彼のお芝居は天気のよう。別に明確に何処かではっきり感情が変わるわけではない、気づいたら、もうそこにさっきの姿は見えない。形を変えてべつのものになってしまった。寂しさと期待が交差していく。あの方のお芝居も素敵だったなぁ、だなんてエンドロールを眺めていた。そういえばエンドロール中に立ち上がって消えてしまう人も映画館で見かけるけど、なんとなく私はゆっくり電気がついたあとに、のっそりみんなが動き出す布の擦れる音がたまらなく愛おしく思える。
二本目はピクサーだった。どうしてもわかりたいと思う気持ち。誰かに対して、わかりたい、理解したいと思う気持ちは最大限の愛情に近いなにかだと信じていたい。みんなちがうバックグラウンドを持ってて、それもまとめてわかって寄り添いたい、そう思える相手に出会えることは何よりもアイを感じる気がする。
三本目は超有名なあの青いの。英語字幕で見る日本の映画は、翻訳者の気持ちも乗せられていてまたちょっと違った作品になっていっているような気がして、愛おしく思えてくる。毎年映画を上映しているシリーズもので毎回こころの柔らかいところを包んでくれるあの作品は、信じること、変わらないことのよさ、大切さを感じさせてくれる。
映画を見て感じる感情、映画が教えてくれる考え、どれも人間が持っているもの。だからそれに似合う言葉がある。
750万個の色を認識できるらしい。でもたぶんそれと同じぐらい、それより多く人間には心の動きがあるんだろうな。認識しきれないけど。
白って200色あんねん。ほな恐怖も200個あるんかもな。
さて、到着。


シンガポールの空港はなんとなくゴージャス、という感覚が似合う気がした。大きいな、広いな、冷房は効いているけど暑さが皮膚から伝わってくる。と周りを見渡して歩いていると目に入ったのは金色の大きなクリスマスツリー、前を歩く半袖の空港職員。頭がバグってしまった。一年中夏か。雪に触れることもないんだろうな。どんな感じなんだろう、それ。と思っていた。オーストラリアにいっていた時は季節は真逆で、サマータイムが適応されていた。でも1月から3月。全然冬だしなんなら春。で、思うんです。暑すぎる冬があってもいいんじゃないかな。寒いマフラーぐるぐるまきの夏もいいんじゃないですか。季節を月割にしてみて、気温の違う土地に行って、こんな夏もあるのか、とか、お互い夏の話してるのに噛み合わない会話があったら面白いのに。可愛いのに。

「方向性を間違えたコミュ力」
シンガポールからマレーシアへの便は大体1時間ちょっと。3列シートの真ん中に身を預け、クラスメイトと写真を撮りたいとは思ったものの、なんと言い出せばいいかわからないし、ましてや私と写真なんて撮りたくはないよなとも思った。結局隣の子が誘ってくれるまで言い出せなかった。いつものことだ。正直にいうと私は呆れるほど拗らせている。自分がやりたいなと思うことはあるし、人とそれができれば勿論嬉しい。でも、どうしてもわかりもしない人の本心を気にして、踏み出せずにいる。このようなこっち側の人は、周りにいるあっち側の皆さんのテンションに当てられて突拍子もない行動に出ることがある。
後ろに座っていた人がすごく盛り上がっていた。私の真後ろに座っていたのはクラスメイト、両隣は他のクラスの子。初対面らしかった。

「歯ブラシとマドラー」
コンビニエンスストアは雑多である。それにしてもカップラーメンの量が多すぎる。壁一面に並ぶカップラーメン。ほとんどハングルで描かれていた。韓国語、わかるようになりたいな−。かれこれ5、6年前から思っている気がする。
結局選ばれたのは日清のトムヤムクンだった。知らない味に挑戦はしたいけど、安定さは欠かせないという私の積極的になり切れない性格が顔を出していた。ホテルでラフにラーメンをすするのが楽しみで仕方なかった私は、お湯を沸かし調子に乗りステンレス製と勘違いし火傷した。浮かれポンチ、怪我をする。やけどを隠しながらお湯を入れ、気づく。箸がない。日本では当たり前のように箸を入れてもらえるから、箸のことを考えもしなかった。ラーメンは伸びる。時間がない。箸の代わりになりそうなものを探すが、宿泊先はアメニティが少ないことで有名なホテル。箸、ましてやフォークさえない。部屋中駆け回った挙げ句、選ばれたのは歯ブラシとマドラーだった。人間は窮地に追い込まれると何でも良くなる。そして今後箸がなくても多少はなんとかなることがわかった。収穫。
ちなみにカップ麺についていたタレのようなものは入れずに食べたが、タレ無しでも十分辛くて美味しかった。辛味の先の旨味を体感した夜。冷房が効きすぎた部屋でアラーム前に起きてしまった。

「日本語」
私が海外に行って楽しいなと、ワクワクするのは別の言語を耳にした時である。他にも食べ物が日本と違ったり、服装だったり、そういうものを体感するのがすごく楽しい。
修学旅行には現地ガイドや日本人ボランティアの方が多くサポートに入ってくれていたし、周りは勿論日本人で日本語しか聞こえない。どれだけ飛行機に乗ろうが地元のご飯を食べようが、どうしてもその言語の壁がなさすぎることが不満であった。自分の無力さに絶望して、ちょっと頑張ってみようと思える経験が欲しかった。


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