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北海道移住生活100日目「100日後に何者にもなれなくても」

住処を変えても人の性根はそうそう変わらない。

「私たちみたいに爆発的な力を出して倒れる人よりも、コツコツ毎日安定して仕事が出来る方がこの世の大部分にとっては良いんだよ」

先日、関東に戻った時、悪友にこのようなニュアンスのことを言われた。悪友は春先に無茶して倒れて入院してたらしい。類は友を呼ぶとはこの事だ。新しい環境に張り切って高熱を出してぶっ倒れてからの病み上がりだった私には警策のような一言だった。
私は要領も手際もいい方ではない。何事もパワーと根性と手数でどうにかなると信じて生きてきた。泥臭い情熱はきっと実を結ぶと今でも信じている。
が、倒れてからいつも、根性だけではどうにもならない事もこの世にはあるんだなあとも思う。

北海道に来る前、個展をやった。
個展ってものすごい体力と気力を使うけど、すごく楽しくて特別な展示。だから私は毎回「後記」を書いている。書籍のあとがきを読むのが好きなのもあるだろう。毎回、残りわずかな気力を絞り切るように書いている。
この個展の後記は移住してからも心が沈む度になんども読み返した。その度に「まだ100日も経ってない私は"序章"で、起承転結の"起"で、幕が開いたばかりなのだから焦る必要はない」と。私は休み方を覚えるために北海道に来たのを思いだす。多少無茶しても何もかもをやりたい自分をコントロールして休ませる練習をしに来たのだ。自分自身を見つめ、自分を労り、やりたい事を心から楽しみ、生きる事を喜ぶ。自分を犠牲にして力でどうにか乗り切る、みたいなことをやめるために来たのだ。

自分をもっと大切にしたい。

私は未だに自転車で生活している。自転車のよいところは車よりも自由に止まったり減速したりできるところだと思う(車は便利だ。先日、10年ぶりぐらいに運転したらやはりとても便利で早い乗り物だった)。生きることも、自由に減速してもよいのだと思う。私は自転車で帰っている時、暗くなるまで空を眺めることを躊躇わないのに、生きることについては少し他の人に遅れを取ったりミスをしただけですぐ焦ってしまう。取り返そうと倍のスピードで何かをしたりしてみてしまう。だから私はときどきわざとゆっくり自転車を漕いでみたりする。日が暮れるまでに家につかなくても、途中で止まって花を眺めても、寄り道しても、誰にも怒られないのだ。そもそもそんな事で厳しく怒られたことはない。やっぱり、私は私に枷をはめるのがとことん好きらしい。生きてきてここまで随分じゃらじゃらと自分に嵌めてきたなと感心する。感心している場合ではないが。少しずつ、外していけたら良いなと思う。

100日目の日記を書くにあたり、最初の頃の日記を読み返した。
特に何かでっかいことをしてやろうという気はなかったけど、果たして100日後の私はどうなっているのだろう?というのは意識していた。
某漫画が流行ってから巷では「100日後に〇〇する誰々」というテンプレートが広がっている。私は100日経ってもまだ部屋が片付いていない。
100日経ってもまだ私は私だった。

新章として北海道にやってきた私は、確かに何かに向かって進んでいる。「不安が追いつかないような速さで、光に向かって走っていく」というのは、つまり誰にも追いつけない速度で走っていくつもりだった。しかし、気付いたのだ。不安は、私と同じ速度で着いてくるものなのだと。ならば、私は私の速度で走っても良い。


結末まで辿り着く前には「承」「転」があり、その前に、そもそも日々がある。漫画でも日常回でキャラクター性が見えたりする。そんな大切なパートをただの通り過ぎる時間として処理することのなんと勿体ないことか。

日々を積み重ねていった先に、移住前の私が見た光があるのかはわからないが、ともかく今は忙殺されないように、必死に「ゆっくりと」生きてみたいなと思っている。


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