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メモリアルダイヤモンドいいな

メモリアルダイヤモンドめちゃくちゃいいな〜!WEB記事で見かけてとても興味がわきました。

元々お墓に入るの嫌だから大自然に撒いてほしいってぼんやり思ってたけど、最期に傍に一緒にいてくれた人がなにか形に残しておきたいと思ってくれるのなら、今のところこれがいいな… と思ったりした。

私は軽度のタナトフォビアなのですが、これを見かけてから死への不安が何故か少し和らぎました。なんでなんだろう。不思議です。

「自然に還して欲しい」というのは残された側からしたら悲しいものなのかもしれない、という葛藤と後ろめたさも実は少しあった。それでも公言していますが…。私は身近な人にそんなことを言われたことがないのでわからないけど、言われたら、少し悲しい…気がする…?どうなんでしょうか。言う側なのでわかりません。想像でしかないですが。でも、どちらにせよ何にせよ、自分勝手なことを言ってるかもしれないなとは思っていた。
だから、選択肢を提示できる、というのも不安を和らげている要素としてあるかもしれない。

「私の肉体は私のものである」という所有の意識が人より少し強いのかもしれない。死後も好きなようにされたくない。
この間、科博のロボット展に行った際も(このロボット展については面白かったのでまた書こうと思う)、どこまでが人間なのかみたいな展示を見たり友人と話したりしてるうちに思考がぐるぐるしてきてしまった。

何をもってして私と呼ぶのだろう。
わからないけど、墓参りして頂いても私はそこにはいないと思う。他の人はわからないです。いると信じている気持ちや信仰を否定するつもりはないです。あくまで、私は。
だからもし場所や形が必要なら、美しいモノとして身につけるか傍に置いて頂くか、綺麗な景色に撒いてそこに訪れる度に私を思い出して欲しい。

ダイヤモンド制作の会社のページを見ながらそんな事を考えていました。

死について触れる事を躊躇う人も多いですね。特に大きな病気もしてない人間が死について考えていると言うと、親の気持ちを…とか、悩み事があるのか…とか、そういう意見も出てくると思いますが。そうではなく必ず訪れるものとして、私は考えています。なぜ人は生まれて死んでゆくのかというのも研究のテーマのひとつであるというのもあります。

はじまりは突然で、終わりも突然です。
だけど終わりは自分である程度決めることが出来る場合の方が多いです。悲しい事に絶対では無いですけど。でも孫に囲まれて大往生したい、みたいな望みとかはある人も多いですよね。
だからこそ、将来何をしたいか、と同じくらい気軽に、私はどう終わりたいかを考えています。そうする事で死への恐怖を克服しようとしているのかもしれません。
あとなんか、いつか絶対に訪れるものなら、どうせなら少しでも楽しみを見つけたいかも。

取り留めもなく書いてしまいましたが、誰かがこんなのもあるんだって知るきっかけになれば嬉しいです。

画家の傍ら自分の考えを文字にしています。 頂いたサポートは制作費用や書籍代として活用させて頂きます(^^)