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人の気持ちがわかる教育って…

こんな記事がネットに上がっていて、個人的にはこの記事の筆者の考えとは異なるので、ちょっとだけ記載してみることにしました。


とはいえ、今の時代、その国語である日本語がまともに読めない成人がいることも確かなことを、この教授は理解されているのかな?

ちょっとややこしい説明になると、途端に間違った解釈をする人が多いんですが、このようになってきたのは、あるいみ国語教育の現実との乖離も要因の一つかと…


国語以外にも、近代史が良くわからない人が多いのも学校教育が近代に行き着く前に終わってしまうことは随分前から指摘されているにも関わらず改善されてないですよね…


それからこの記事のタイトルにありますが、文学を学ぶことと人の気持がわかることの相関はどのくらいあるのでしょうか?人の気持がわかることが国語を介してでなければ90~100%の理解度に繋がらないのであれば問題視しても良いのでしょうけど、文学にその役目を全面的におわせるには流石に無理があるのでは…


ディベートに関しても書かれていますが、ディベートする場合でも記事のように沢山のインプットは必要です。そのインプットは、ディベートをする人が能動的に取得してきたこれまでの読書量を含む情報の蓄積とそれをどのように理解したのかの考え方や分析力などが主なものかと思います。それらの中で文学はどのくらいを占めているのでしょうか?


昨今は文学を知っても、テレビのクイズ番組に答える程度しか役にたたないと言われている状況では無いでしょうか?


日本の教育は、小学校から大学まで多くの科目で、実社会との断絶が甚だしいとわたしは思っています。たとえば多くの企業でベテラン従業員が「その作業工程、因数分解してみたら…」と概念だけで言っても、理解できない現代人は多いですね。(これは膨大な作業工程があったら、それを関連するまとまりに分割して作業すると、苦になりにくいことや、大きなプロジェクトの場合は、小さな工程に分けてそれぞれを専門化して効率と能率を上げようとすることの例えですね…)つまりは社会との架け橋というかリエゾンになっていることが重要なんですが、学問だけが完全に独立してしまっているというのが今の日本の教育の現状のように感じています。長い間学校で学習したことが、実社会でどのように役立つことができるのかが希薄になっているといいますか、わからなくなっているのではないでしょうか?


最近経営関連ではパーパスって言葉が出始めていますが、コロナ禍を含め、企業はどうあるべきかという問いを感じる人も多くいたのかも知れません。なぜ我社は存在するのか、何を目的として私達は働いているのか、といったいわば原点回帰といいますか、自分たちの存在意義を改めて見つめることに気づき、パーパスという言葉が着目されてきているのかも知れません。


そこで、学校教育のパーパスって何でしょうか? ざっくりいうと、それが社会で生きていくことや人間の豊かさのようなものに結びつかなければ、学校教育に何の意義をもたせることができるのでしょうか?


さて、これまでの記述で文学好きの方は「都合のいいこと言いやがって」と思われているのかも知れません。わたしの文学と実社会の架け橋部分は、すぐ上のセンテンスに記した「人間の豊かさ」のところにあると思っています。その生徒や受講生の可能性を引き出すという意味では、様々な教科というものを学校が揃えているというのはありかも知れません。例えば、図工、音楽など。つまりはこれまでの国語という科目の中で、文学や古典がどのくらいを占めていたのかは、わかりませんが、多様な子どもたちの可能性を育む点においては、国語科目が分割され、役割がはっきりする点ではむしろ4月からの改訂の方が現代には即していると思っています。


最後に「人の気持ちがわからない子が育つ”改悪”」というのであれば、わたしはこれまでの学校教育でも既に「人の気持ちがわからない子が育つ”改悪”」状態を作り出していると思っています。その意味で、まずは猛省してほしいですし、そうであるなら、改悪と仰る先生方には、きちんと実社会に理解できる言葉で、論理的に一貫性のある内容での代替案を提示してほしいですね。それとも何もしないということでしょうか?ならば今後も「人の気持ちがわからない子が育つ」国語をやり通すということなのかな?

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