しつけ糸すら知らない人間が、着物を自分で着付けてみると
自分ではじめて着物の着付けをした。
ふと、着物の着付けに挑戦してみたいと思い、母に一式送ってもらったのであった。
着物を着てみたいという想いはあったけど想いしかなかった。しつけ糸を取ることすら知らなかった。
そんな人間だからもちろん道具の使い方なぞ分からない。伊達締め?コーリンベルト?帯まくら?
サイトでは丁寧に画像付きで説明してくれているのに、ちょっと出てくる用語すら分からなかった。
これは本当に日本語なんか??それともわたしが日本人じゃないんか??と疑問を覚えつつ、いろんな動画を観ながら、サイトを参考にしつつ四苦八苦。結局午前中はすべて使った。
着付け終わったあとはもうぐったり。でもそれっぽく見える自分の姿を鏡越しに見ては笑みがこぼれた。
派手すぎないけど華やかなピンクの着物に、淡い桜色や薄い緑が混じった桜柄の帯、赤い帯締めが映える。
苦労して整えた自分の姿、正直、いろんな人に見てもらいたかった。
そんな気持ちを抑えきれず、電車に揺られて浅草へ向かう。
電車を降りて(気持ちだけ)スキップしながら歩いていると、上品なご婦人から「帯!取れてますよ!」
パッと背中を触るとぱふっという感覚がなく、ああ、帯ほどけたわ。これは一反木綿が背中で泳いでるわ。と一瞬で気づいた。
ありがとうございます〜、なんて言いつつ心の中はパニック。せっかく着付けたのに到着3分で帰るんか。
とにかくどこか帯の状態を見られるところを、と探してるとわんちゃんを連れた60代ほどの女性に声をかけられた。
「大丈夫!わたしが直すから!!」え?え??なんて思っているうちにその場で立たされて、彼女の指示通り帯を抑える。
いろんな意味で混乱していた。帯がほどけた、女性が声をかけてくれた、はもちろん、立っていた場所が横断歩道の島だった。両隣から車がビュンビュン通る。意味が分からない。
混乱しすぎて指示通りにしか動けない。「ああ〜、緩んじゃったのね〜、ギュッと締めないと緩むわよね〜」なんて言いつつ1分ほどで直してくれた。まるで魔法だ。
「誰に着付けてもらったの?」と聞かれて、一瞬ごまかしたくなった。自分で着付けて帯ほどけて道路の中心で直してもらってるなんて恥ずかしすぎる。
でもごまかせなかった。「...自分です...。」
「すごいじゃない!!きれいよ〜!」褒めてもらえるなんて以外だった。素直にうれしい。自分で着付けてみてよかった、と本気で思った。
着物もサッと直してもらってお礼を言っていると、「私今いろいろ幼稚園経営してて、京都の着物屋の4代目なのよ〜!」
え?どういうこと??
情報過多すぎて思わず聞き直してしまった。
カジュアルな服装で気さくで面白くてわんちゃんを連れているこの女性が、複数の幼稚園経営者で着物屋の4代目??
びっくりして固まっていると、パッと信号が青に変わり、「これでもう絶対崩れないから!じゃあね〜!」と去ってしまった。
嵐のような時間だった。でもなぜかあたたかい。
そのあとお着物に慣れてなくて、つい動作が雑になっても一切崩れなかった。
そのあとは浅草をふらふらと歩いて桜を堪能し、近くのバーへ。普段はバーだなんて恐れ多くて行けない。そのときはお着物が甲冑の役割を果たしてくれた。武将のように強くなれた気がした。
ちょこっと一歩を踏み出してみてよかった。人情に触れた。今まで知らなかった場所を知れた。自分でもできる、という自信がちょこっと重なった。
とはいえ、今でも新しいことに挑戦するハードルは低くない。着物の着付けも実は過去1回挑戦して、大変すぎて諦めた。今回3時間半かけてようやく成功したつもりだった。だけど結局帯はほどけた。
自分の心のポケットにすき間があるときじゃないと、なかなか新しいことに挑戦できない。
それでも着てよかった。自分が変身できた気分だった。ただ歩いているだけでも高揚感でいっぱいになった。やりたいことが増えた。
いつか帯がほどけたことを教えてくれた女性のような優しさを、気さくに帯を直してくれた女性のような余裕を、私も持って歩きたい。
日常からそっと逃避行する時間に使わせていただきます。