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距離と想いは比例しない話

恋人が体調不良で会社を休んでいる。


突然恥ずかしげもなく「恋人」という表現方法を使ってみましたが、恥ずかしげは、ある。

少しだけ、タミオ君が恋人である実感がわいてきたので、かねてから憧れていたこの響きを自ら使ってみる。


もう一つ、あえて口走ると
タミオ君の生身に会う機会よりも、ここで書き記す機会のほうが多いので、迂闊に現実世界でウッカリ「タミオ君」と言ってしまいそうになることがある。


このnoteは
実生活で関わる誰にも知られずに書き記すことに意味があるので、説明するわけにはいかない。



話を戻す。

今日、恋人が体調不良で会社を休んでいる。


朝から「今日は体調不良で会社を休みます」という連絡とともに
大変な具合の悪さが文字となり羅列されていた。

彼は実家暮らしなので、一応確認したけど今日も昼間はご家族の方がいらっしゃるようだし、一人でのたうちまわるという心配はない。


いい年なのでつきっきりで看病されたりはしないにしろ、具合の悪い時に同じ屋根の下に自分とは別の誰かがいる ってのは心強いからね。



かくいう私も、一人暮らしを再開させてから記憶にある限り WAKU珍の副反応以外で具合を悪くしたことはないので、一人の心細さを身に染みて感じているわけでもないんだけど。


私の場合は
一人暮らしを許してもらえた唯一の引っ越し先が、実家と「目と鼻の先」ならぬ「目とまつ毛の先」ぐらいの距離なので


日頃行き来しやすいことで荷物を運ぶときに楽だとか、おかずのお裾分けがしやすいとか

お互いの安否を確認しやすいという利点はあるものの



どうしても、母親から目の届く場所でしか生活できない という、私の精神の大半をコントロールしている部分から逃れられない欠点もある。


それをいつまでも欠点だと思う気持ちが強いままでいる以上、この距離感は「ありがたい」ことではなく「ストレス」になってしまう。


離れていても、思い合うことはできるし
近くにいても、プライバシーを守ることはできるはず。


我が家の場合は、私と母の場合は、それができない。


何度となく家に恋人を連れ込むようになって
少しだけ気兼ねなく寄り添えるようになったことで

一人暮らしの家があってよかったな、と思う機会も増えたけど


まだ家に自分以外の誰かがいることには違和感があって

違和感というより、得体の知れない不安があって

連れ込んでいるのが分かることで
一緒にいることを想像されることに、とても嫌悪感を覚えてしまう。


考えすぎだとは思うんだけど。

今回は反対されているわけでもないし
何なら応援してくれているぐらいだけど。


母は私の相手を拒絶する
私が恋愛することを止める
恋愛は悪いこと
幸せになるのは悪いこと
自分だけの幸せを求めるのは親不孝


長年刷り込まれた先入観から、いつまで経っても抜け出せなくて


タミオ君がそばにいても
その大きな手が優しく私を包んでくれていても
どんなに心地よさを感じても

実家と 目とまつ毛の先しか離れていない我が家で

見えるはずのない母の視線に怯えて
母の意識に気持ちが向いてしまって

悲しい気持ちになる。



もしタミオ君が実家暮らしじゃなくて
一人でのたうち回ってるんだとしたら

私はできることなら、仕事が終わってすぐに、水分補給や栄養補給の品を揃えて駆け付けたいところだけど


きっと私はそれすらも
母の許可を得なければならないと本能的に思うわけで

そこで 方角が悪いだの、移るだの言われて止められたら

それを押してでも駆け付けられるメンタルが出来上がっていない。


もう大人なのに
母親に報告して許可を得る必要がある生活が、きっと心のどこかで、頭のどこかで、ずっと耐えられないと感じてる。

自らの意志だけで動くこと、判断することに慣れていないだけなのかもしれないけど

慣れてないなら、ここから慣れればいい話なんだろうけど


今は、恋人が実家暮らしでよかったな と
思ってしまうような
まだまだ弱い女だったりする。

とても情けないし、とても悲しい。


いつか私自身がちゃんと
母の呪縛から抜け出せる日が来たら

もう少し母にも優しくできて

恋人にもちゃんと愛情を伝えられて
何も考えずに、ただ寄り添っていられることに幸せを感じられるようになるのかな。

幸せだって思うことに
罪悪感を覚えずに済む日が来ればいいな。



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