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ルソーの一般意志と全体意志の違いについて

ルソーは『社会契約論』で一般意志について次のような説明をしている。

(Ⅰ)党派性のないものが一般意志である
(Ⅱ)一般意志は(特殊意志の総和である)全体意志とは異なる
(Ⅲ:そして法律は一般意志に基づかねばならない)

『社会契約論』§2.2、§2.3

この説明について、まず(Ⅰ)の意義については誰でも容易に理解できよう。党派性に基づいた法律だと特定の人々だけが有利となってしまうので、法律は党派性のない一般意志に基づいて制定されねばならないという意味である。
問題は(Ⅱ)の意味である。一般意志は(特殊意志の総和である)全体意志とは異なる――これがいったいどういう意味なのか。

筆者があたった何冊かの本の限りでは「丁寧な議論によって合意できたところが一般意志である」といった種類の説明ばかりであった。
しかしこの解釈だと、特殊意志の総和である全体意志と一般意志が結局どのように異なるのかが不明であるし、丁寧な議論とは言っても一種の多数決のようなものにならざるをえず、それだと必ず党派性を帯びてしまうので一般意志ではなくなってしまう(→Ⅰ)。はたして一般意志とは何であり、それは特殊意志や全体意志とどのように異なるのだろうか??


その謎を解くために、まず一般意志の原語が volonté générale であることに着目する。volontéはvoluntaryやvolontairementと語源が同じで「自発的」という意味を含んでおり、つまり通常「一般意志」と訳されるvolonté généraleはじつは「一般的自発性」という意味を含んでいるのである。

ところで、かつて西洋では専制君主や教会が恣意的に、つまり特殊意志によって法律や道徳律を制定し、それを権力権威を背景にして市民に押しつけていた。君主や教会の時代が終わり、それに代わって<対等な市民>が強制力(とくに法律)を設定できる時代が来ると、今度はそうした強制力の正当な基準とは何によって決まるのかという問題が生じてくる。(仮に強制力=法律を単純に多数決で決めるとすると、結局少数派は多数派の特殊意志ないし全体意志に従属することになり、専制君主や教会の時代と本質的に変わらなくなってしまう)

このアポリアについてルソーがどのように考えていたか。『社会契約論』と同年に発表された『エミール』の記述から窺い知れるのでそれを見てみよう。この引用は、西洋では長い間、善悪や正義その他の道徳律がキリスト教教会(=特殊意志者)によって恣意的に定められ市民に強制されていたことを批判する文脈の中に置かれているものである。

「私は、ある国民に見られて他の国民に見られないもの、ある身分に見られて他の身分に見られないものを人為的なものとして捨て去り、どんな時代、どんな階級、どんな国民に属する人であろうと、すべての人に共通したものだけを異議を差し挟む余地なく人間に属するものと見なしたのだ」

『エミール』(中)

ルソーは世界にはキリスト教以外の社会も存在し、そこでも立派な道徳律が設定されていることを知っていた。つまりキリスト教指導者が恣意的に設定している道徳になんら普遍性はなく、むしろ人間は自らの発想に従って自発的に(自律的に)道徳を設定することができるはずであり、とくにどの社会に普遍的に見られるものこそ本来的に「人間に属するもの(道徳)」のはずだということをルソーはここで言いたいのである。
そして同じことが法律にも言えるだろうともルソーは考えた。

ルソーは、特殊意志でも全体意志でもない、どこの社会にも見られる「人間に属するもの」こそ人間の規律であり、それは人間の一般的自発性によって自律的に設定されるものであり、この一般的自発性=一般意志の秩序に従わせることこそ、対等な市民間における正当な強制力だと考えたのである。
そうして『社会契約論』で次のように宣言する。この一般意志への従属こそルソーの社会契約で課される市民的義務の中核である。

「社会の構成員は皆、一般意志の最高指導に従え」(=特殊意志を強制するな)

『社会契約論』§1.6

ではその個別意志でも全体意志でもない一般意志とは具体的にはどういうものなのか、以下、所有権を例にそのイメージを説明しよう。

所有権が誰に属するかについての勝手な言い分や理屈が特殊意志や全体意志、一方、そもそも人間は所有権をいかなる論理で認めているのか、それについての人々の一致した意識が一般意志だと考える。
たとえば我々は<先占>することで物の所有権を正当に獲得するが、これがなぜ正当なのかといえば、先占という事態を所有権の発生要因として我々は自発的な慣習として認めており、そこに全員の意識が自明的に一致しているからである(そこに党派性がないからである)。
このように一般意志とは、議論や多数決で決まるような性質のものではなく――議論や多数決など必要ないほどに自明な――人間の論理(発想)の現われである一般的自発性のことだと考えるのである。

すると、たとえばジャイアンが自分の特殊意志(と実力)によって、のび太が空き地で拾った(先占した)ビー玉を取り上げるのは不当であるが、それがなぜ不当なのかといえば、一般意志がそのような所有権の移動を不当とみなしているからだと説明できる。
それが不当であることはジャイアンですら内心そう思っているのであり、ゆえにジャイアンは刑に服することになったとき、自分が刑罰をうけること、そのこと自体は自明だと思うのである。つまりその行為の不当性と刑罰はジャイアンの一般意志(一般的自発性)でもあるのである。ジャイアンであっても自分の行為が不当であり刑罰に値するという意識=一般意志から逃れることは絶対にできない。
このように一般意志とは、人間が誰もが自然と無意識に自発的に従ってしまうもの(発想)であり、だからこそ一般意志は市民が自分自身の意志[volonté]にのみ従い、他の誰の意志にも従属しないですむ正当な基準といえるのであり、つまり一般意志にのみ従うことが求められている市民は誰からも自由といえるのであり、またそれゆえにそうした一般意志に基づく法律だけが市民の自由を侵害しない正当な強制力なのだ(→Ⅲ)、とルソーは考えたのである。

〔ここでは全体意志についてあまり説明していないが、世俗権力や、また特に宗教勢力がその特殊意志を数的優位等を利用して強制しているようなことが想定されていると思う(私見)。なお『エミール』で多神教は自然宗教(即ち自発的宗教)とみなされており、自発的な宗教に由来する秩序は全体意志とみなしていない(一般意志側とみている)と筆者は考えている〕

さて、このように一般意志論の趣旨を理解すると、今日いちぶの勢力が押しつけてくる「ポリコレ」というものが、この意味での正当性を欠いていることも理解できよう。
「社会の構成員は皆、一般意志(一般的自発性)の最高指導に従え」
――このように述べたルソーの意図が、まさに今日の我々ならよく理解できるのである。

〔※筆者が思う一般意志の例:
  ・先占した人に所有権が生じる
  ・殺人は窃盗より罪が重い
  ・性別は男女の2つ
  ・王様は裸だ(その状態を裸と認識し、また「裸」と表現すること)
 等。…いずれも「誰にとっても自明で、逃れられないもの」であろう。〕


なお以下は『社会契約論』§4.1からの引用である。ルソーがなぜこのようなことを言ったのか、言う必要があったのか、それはここまでの話を念頭に置けば理解できるだろう。

①「多くの人が結合して、一体をなしているとみずから考えているかぎり、彼らは、共同の保存と全員の幸福に関わる、ただ一つの意志しかもっていない。そのときには、国家のあらゆる原動力は、強力で単純であり、国家の格率ははっきりしていて、光りかがやいている。(中略) 共同の幸福は、いたるところに、明らかにあらわれており、常識さえあれば、誰でもそれを見分けることができる。平和、団結、平等は、政治的なかけひき[によって特殊意志を強制しようとしている党派性のある人々]の敵である。正直で単純な人間は、単純さのゆえに、だまされにくい。術策や〔巧みな〕口実をもってしても、彼らを騙すことはできない。彼らは、欺かれるだけのずるさすらない」
②「こういうふうに〔素朴に〕治められている国家は、きわめてわずかの法律しか必要としない。そして、新しい法律を発布する必要が生ずると、この必要は誰にも明らかになる。新しい法律を最初に提出する人は、すべての人々が、すでに感じていたことを、口に出すだけだ。 他人も自分と同じようにするだろうということが確かになるやいなや、各人がすでに実行しようと、心に決めていたことを、法律とするためには、術策も雄弁も必要ない
③「しかし、社会の結び目がゆるみ、国家が弱くなりはじめると、また、個人的な利害が顔をもたげ、群小の集団が大きな社会に影響を及ぼし始めると、共同体の利益は損なわれ、その敵対者があらわれてくる。投票においては、もはや全員一致は行われなくなる。 一般意志は、もはや全体の意思ではなくなる。対立や論争が起こる。そして、どんな立派な意見でも、論争を経なければ通らなくなる
④「最後に、国家が滅亡に瀕して、もはやごまかしの空虚な形でしか存在しなくなり、社会のきずなが、すべての人々の心の中で破られ、もっともいやしい利害すら、厚かましくも公共の幸福という神聖な名を装うようになると、そのときには、一般意志は黙ってしまう。 すべての人々は、人にはいえない動機に導かれ、もはや市民として意見を述べなくなり、国家はまるで存在しなかったかのようである。そして、個人的な利害しか目的としないような、不正な布告が、法律という名のもとに、誤って可決されるようになる

『社会契約論』§4.1

補足

(1)本文でもすこし触れたが、ルソーは哲学者や神学者による恣意的な規律の設定を嫌う思想家である。ルソーは人間の心[l'âme]が本当に感じたもの[véritables affections]をこそ重視する。それこそを「人間に属するもの」とみなす。『エミール』においてルソーが慣習(ここにいう慣習は人間の心の原理と無関係に設定された神学的慣習を意味する)を否定し、「慣習」に汚染されていない未開人[sauvage]を重視しているのは、そのためである。
(2)ホッブズは『リヴァイアサン』で、意志[Will]とは、スコラ哲学者[Schooles]が言うように合理的欲求[Rationall Appetite]から生じるものではなく、感情の差し引き[Deliberation]の結果から自然と生じるanimal motion(動物的行動)ないし voluntary motionであると述べている(筆者の読むところホッブズも哲学者や神学者に否定的な感情を持つ思想家である)。ルソーはホッブズのこうした意志についての洞察を踏襲していると筆者は考える。
筆者が本文でvolonté généraleとは自発的慣習のことであると要約したのは、自発的慣習とはgeneral voluntary motionのことだと見なせると判断したためである。

――本稿におけるルソーの一般意志についての説明は、こうした筆者の独自の(?)考察を踏まえて行ったものである。

なお以下のリンクはヒュームの人間本性論と関連づけてルソーの一般意志を説明したものである。一般意志とは何かについても『社会契約論』の記述をより多く引用しながら本稿とはまた少し別の説明をしているので、興味があれば参照してください。

(参考拙稿)
ヒュームとルソーのconvention概念について―反・社会契約論(1)
ルソー「一般意志」概念の考察――反・社会契約論(2)


編集履歴:
2021.11.28 公開
2024.2.23 改訂