何も選べず、何も捨てられない少年の物語 『わたし、二番目の彼女でいいから』感想

こんなツイートをした。後期試験も2週間後に迫り、というか明日実験なのに、俺は絶対に手を出してはいけない背徳の小説を手に取ってしまった。それも寝る前に。せめて昼に読むべきだった。フォールガイズばっかりやってないで読書しろや昼の自分。

ともかく。電撃文庫刊、西条陽先生による小説『わたし、二番目の彼女でいいから』を読んだ。これの前、俺が最後に読んだ小説『わたしの幸せな結婚』のような、最高に美しい王道の純愛少女物語とは正反対の、誰が悪いでもなくねじれてこじれてショート回路のようになった愛情の糸の中、その中からどれを選び取ることも、どれを諦めることもできずに、少なくとも世間的には不誠実であると糾弾されてもおかしくない道を進む主人公の物語。

まず、同級生の早坂と「2番目同士」で付き合っている主人公の桐島。
最初から「2番目に好きな相手」という認識を共有したうえで付き合うというのが前衛的。けれど決してお互いに雑に扱うということを決してせず、それどころか、たとえ2番目だとしてもしっかりと相手のことをお互いに好きになってしまっている。
それだけ聞くと不誠実に聞こえるかもしれないが、別にそれ自体は悪いことだと思わない。現実でも複数の人間に恋愛感情を抱く人は普通にいるだろう。
この2人は、お互いに1番好きな相手が別にいるということを知っているという1点を除けば、ただ純粋な(と言ったら語弊があるかもしれないが)カップルである。

・お互いの「1番目」に自分たちの関係を知られないこと
・どちらかが「1番目」と恋人になればこの関係を解消する
この2つだけのルールを決めて早坂と付き合っている桐島は、この妥協をポジティブに捉えていて、この世の全員が自分の1番好きな人と一緒になれるわけではないし、そんな中で2番目とはいえ自分の大好きな人との関係を「保険」として持っていられるから、と。
こんな歪な関係でも、2人の間で受け入れあっていた。

やはりこの小説の中で使われる「2番目に好きな人」という言葉は、ぶっちぎりで1番好きな人と一緒になれないことに対するもどかしさを解消するための「代わり」としての意味合いよりも、ただ1番手ではないだけでそれでも「大好きな人」というポジティブな側面の方が強い言葉として使われていた。

ここにこの作品の問題提起というか、無意識の前提に対する問いかけが詰まっていると思う。
自分の一番好きな相手と結ばれ、その相手と幸せになることが唯一絶対の「最適解」である、「最も美しいこと」である、というあたりまえが本当に正しいのかどうか。

複数人を好きになってしまうことも、一番好きではない相手と一緒になることも、相手のそれを知っても好きでい続けることも、それは本当に悪いことなのか。
これらのテーマが、世間的な体裁というものさしの中ではなく、ただただ本人たちが納得できるかどうかという基準のなかで、こじれにこじれてねじれにねじれ、主人公を絞めつけていく。

主人公の桐島にとっての「1番」である橘という女の子や、学生生活を取り巻く様々な人間によって、友情と愛情、世間体、肉体関係、嫉妬、秘密など、それらが文章の仕掛けもたっぷりで読み手に染み入ってくる。

自分の言葉で形容できないものを安易に「芸術」や「哲学」という言葉で片付けたくはないが、この作品は、本と読者の間だけで完結する「哲学」として成立していると思うし、まあ文学としてこれが芸術であることは言うまでもないと思う。

面白いです。純愛というテーマとは対極にある、ある種の究極系。
俺も早く2巻読まなきゃ。

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