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手放せなかったことへの言い訳

片付けは、とくに、ものを処分するのは、思い立ったときにしないとずっとできない。わたしの片付けは唐突に始まる。その片付けモードにスイッチが入った先日、仕分けた着物を畳紙につつみ、ビニール袋に入れ、段ボールに入れ、古着屋さんに送る準備を整えた。

そのときの記事に書いた水色の羽織について、「充分美しいと思います」とコメントをくださった方がいた。
フランス南西部の美しい地方都市に住むYさんだ。

着物を見る目がある人がいる日本では着られなくても、自分の住む街では普通に着られるレベルだという。その視点を、とても大切だと思った。

「街並み自体が古く色褪せているせいかもしれません。みんな物持ち良く、驚くほど古びても愛用しているひとが沢山います」

行ったことはないが、彼女の住む街が目に浮かんだ。古びても褪せてもみすぼらしくならない、そんなひとやものに心から憧れる。

わたしは段ボールから水色の霰の羽織をひっぱり出した。えーい。着てしまえ。

さらにつづいて、件の呉服屋さんから連絡が入った。コートへの仕立て直しをあきらめ、処分を決めた着物についてだった。

「あれからずっと考えていたんですけどね、大島紬は裏表使えるのですよ。それで褪せたところを隠すことができそうなんです。羽織もありましたよね、その袖も使えるとすれば尚更」

昔の大島はアンサンブルでつくる人が多かったようで、義母のそれも羽織がついていた。
それで、引き取ってきた着物を再び預けることになった。仕立て直しができる前提で、コートの裏地を選びながら考えたのは、一からすべて誂えれば、より、好みのものができるだろうということで、でもわたしがいま、したいことは、義母の古い着物を用いて仕立て直しをすることだった。そしてこの呉服屋さんが風呂敷に包んで持ってきてくれたいくつかの反物から、裏地を選ぶことだった。そういう流れに身を任せてみることだった。

それからわたしは、昔のことを話した。
子供の頃に桑畑で遊んだこと。学校の帰りに桑の実を食べながら帰ってきたこと。
あら、お若いのにそんな思い出が、と年配の彼は驚いたように言うが、あれはもう養蚕農家のところに行く桑ではなくて、節税対策で農地になっているとか、そういう畑だったのかもしれない。
そして、農家の友達の家の離れで遊んだことも、うっすらとよみがえってきた。昔、蚕を飼っていた建物だったが、そのときはもう機能していなかった。
高度経済成長で日本から養蚕や絹や着物文化が少しずつ消えてゆき、いまは一般人が着物に関わろうとすると、ちょっと酔狂な感じになるのかもしれない。

わたしはそれでもまぁよくて、公園のごみ拾い活動とたぶん、まったく同じで、自分がしたいからしている。きものが日常にある世の中を、自分の範囲では可能にできるから、小さく実現している。それだけのことだ。

それは楽しい、真剣な遊びだ。
段ボールから救出した3枚の、ついに手放せなかったことの言い訳になるだろうか。

今回は20着ほどを送りました

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