見出し画像

新宿の地下街で

開店前の百貨店に潜入した。地下食料品売り場に新しく開店するベーカリーを撮影する仕事があったからだ。写真は情報サイトのニュース記事に掲載される。シェフの取材は夕方からで、先に写真を撮るのだ。

目新しい内装、その由来、ほかでは買えない商品、その素材、その価格の理由、新しい試み、そこに込めた想い。

文章を読まない人のために画像がある。画像も多くを語る。語る画像を撮りたいと思う。

既に規模の大きなチェーン店が開店してもたいした記事にはならないが、小さな個人店が百貨店に見出されて、世界一の乗降客数を記録する駅に直結した百貨店に店を開くのだ。それは少し目をひくニュースにはなるだろう。少しだけ。決してバズったり、炎上したりしない、当たり障りのないニュース。ただし、正確な一次情報だ。それは読んだ人の日々を少しだけ活気づける。百貨店でパンを売る人は、世界を眺め、未来を見越して動く。百貨店のパンなのに。いや、百貨店で売る特別な品だからか。いずれにしても開店前に、窯から出たばかりの、整列したパンを撮りにいく。

そのベーカリーは広報担当者がいるような規模ではないから当然、誰も迎えに来ない。従業員用の裏口の脇でガードマンにセキュリティチェックを受けて受付を済ませ、専用通路を一人で行く。そのときなんだか潜入している、という気分になったのだった。

自分が生まれる前からあった古い百貨店の裏口は、洞穴のようだった。煤けた壁やよくわからないダクトが絡みあう場所で、汚れた階段があり、錆びた鉄製のドアがあり、埃っぽい匂いが澱んでいて、地下食品売り場へ向かう通路は狭く複雑だった。

そんな場所で迷った時、子供なら泣きながら走り出すかもしれないが、わたしは一瞬、年老いた人のようにうろたえ、従業員の姿を探した。背後からカツカツとヒールの音を響かせて脇を通り過ぎようとした販売員らしき若い女性に、地下食品売り場への扉のありかを尋ねると「いま、急いでるんで」と冷たく言い放たれた。表の顔とは大違いだ。けれど、自分は彼女にとって大切なお客ではなく邪魔者なのだった。

その瞬間、道に迷った不安が好奇心に変わる。舞台裏はいつも興味深い。表に並んでいる商品よりも裏側の様子に興味が持っていかれる。キラキラしたものの中に小さな不安を感じるよりも、荒んだものの中に希望を見つけてみたいと思う。

ようやく辿り着いた先で撮影を済ませた後、次の予定まで地上に戻る。新宿駅の人混みは、渋谷駅の人混みとは違って子供の頃からの親しみがある。人生のいろいろな段階で、この人混みの中の一人として存在していたからかもしれない。

どこかから来て新宿の街に出ていく人たち、新宿の街からどこかへ出ていく人たち。たくさんの人たちの経過する地点。一番人の多いその界隈ですれ違った大柄の女に違和感があった。男だったかもしれない。つばのある帽子を目深にかぶって、金鎖の小さなバッグを肩からかけ、太いヒールの靴を履いていた。目をひいたのは赤いビキニだった。それはわたしに、先日見たクジャクサボテンの花を思い出させた。二度見している間に女は雑踏に消えていった。駅を歩く誰も彼女のことを気にしていなかったから、わたしだけに見えたのかもしれなかった。白昼夢ではなかったことを人に証明するために、写真を撮れたらよかった。けれど誰に証明するというのだろう。


次のインタビューのアポイントメントまでぽっかりと空いた時間、地下に延々と続く商店街を歩くと、水槽が置かれているのに気がついた。小さな魚と水草が、緑のない地下街の憩いの場となっているようだった。憩いは求められているはずだが、誰も水槽に目に留める人はいなかった。わたしには休憩が必要だった。それは今している仕事と異なる何かだった。

水槽の前で一眼レフを取り出して、魚を撮影していたら、背後から声がした。梅雨入り前の鬱陶しい空気にも関わらず、何連ものネックレスをして毛羽だったショールを巻いた老婆だった。「この先に、もっとたくさん魚がいるわよ」と彼女はわたしの耳もとで囁いた。

ここは記事にはしない、もうひとつの新宿。

※ based on a true story

この記事が参加している募集

やってみた

サポートしていただいたら、noteに書く記事の取材経費にしたいと思います。よろしくお願いいたします。