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ChatGPTも追いつけない領域。不二と蝉時雨。

電話で話した人が「すごい蝉時雨ですね」と言った。仕事場がケヤキの樹冠の下にあるので、蝉時雨が降りそそぎ、その声はもしかしたら下からも昇ってきているのだ。毎日そこにいると、いつのまにか耳鳴りのようになって慣れてしまっていた。

先日お茶室で「枝上一蝉吟」と書かれた短冊を拝見した。初めて見る言葉だった。しじょういっせんぎんず、と読めなくても漢字を知っている人なら「蝉の季節か」と夏を感じるかもしれない。それだけでもかまわないが、これは禅語で、もっと深いことを言っている。

禅語にはいろいろな解釈があり、ネットで調べても首を傾げるようなものもある。AIに聞いてみたところで、まだ全然追いついていない領域だ。
その言葉を床の間に掛け、わたしを茶室に招いてくれたYは、「枝上一蝉吟について説明している人がごみ拾いの例を出したので、これは美穂子さんの話だと思ったから」と言って興味深い話をしてくれた。

わたしたちは普段「物事の分別(ふんべつ)もつかない」とか「分別がある人ならば」とか言って、ものごとの是非を判断する「分別」を良いこととしている。しかし仏教でいう「分別」は「虚妄である自他の区別を前提として思考すること。転じて、我(が)にとらわれた意識」(スーパー大辞林)としている。

自他、善悪、美醜などは表裏一体で、対立する二つではなくて一つのことであるとするのが仏教の「不二」とよばれる考え方だ。それを説くのにごみ拾いを例にしているお坊さんがいて、Yはそれを読んでわたしのことを思い出したのだった。

「ごみ拾いは対価を求めてやっているのではないし、褒められたいからでもなく、ただ気持ちいいからやっていると言っていたでしょう?」

「そうそう、街のためとか人のためとか考えたこともなくて自分。自分が今いる世界がきれいだったら自分がうれしいからやっているだけなの。利他と言われて褒められるけれど、むしろ利己主義ですよね」

でも、その先がある。
わたしがもし「無神経にごみを捨てる人間に腹をたてる人」になったら問題らしい。良いことをしているつもりでも、腹を立てた瞬間に「きれいにする人」と「汚す人」の「二項対立」でものを考える人になり、「二項対立」なるものをつくり出してしまうから。それは「不二」の考え方の逆を行くのだ。

ごみ拾いを始める前は、清掃の人を見て、毎日拾っていても、翌日またたくさん落ちていて、エンドレスで、頭にくるのではないだろうか、嫌になってしまうのではないだろうかと考えていたけれど自分で拾い始めたらそれは違うとわかった。もちろん(げっ、撒き散らされている)とか(ひどいありさまだね)とか(なんでこんなふうに捨てるかな)とかありのままに感じることはあっても、腹をたてることはない。それは不思議だけれど、自分で拾ってみるとわかる。

と、ここでドヤ顏しているようでは仏道的にはアレですよね。それでわたしはYの話の続きを聞いた。

「枝上一蝉吟」の前には故事に基づいて「維摩、口を開くに懶(ものう)し」という句がある。
釈迦の弟子の維摩という人は文殊菩薩に「不二」についての考えを尋ねられたとき、ただ黙って何も言わなかったという。言葉にしたとたんに分別が生まれ、真理ではなくなってしまうから。
維摩は口を開かなかったけれど、そのことは「一黙、雷の如し」として、今この時代まで語り継がれている。沈黙は雷鳴のように轟いたのだ。

沈黙の静けさの中で聞こえてきたのは、蝉時雨だったかもしれないとわたしは思う。Yがそんなふうに話したからそう思った。
本当はどうなのだろう。「蝉の声を聞いた方がまし」という解釈もあるようだ。

床の間にかかる短冊は、表面上は単なる夏の風情だが、じつは深い意味があったのだった。
Yの話を聞いたとき、腑に落ちるとはこのことか、と思ったのに、今ここでこうやって不二について書いてみると心許ない。わたしはちゃんと理解しているだろうか。そもそも言葉を超えるものをどうやって言葉で説明するのだろう、だから無言なのかと禅問答のようになってくる。
もう少し勉強してみたいと思う。

この夏はYの茶室に呼んでもらって、自主稽古を始めた。炭や花を調えたり、主菓子にと季節の花のこなし(関東でいうねりきりのようなもの)をつくったり、こんなふうに禅語について話したりと、それはいい時間をもらっている。








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