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信じるってなんだろね

あなたは他人を信じていますか?
もしくは、
他人を信用していますか?

最初に記せば、自分は他人をあまり信用していないと我ながら思っている。
特に仕事の時。
自分が数人いればもっと楽なのに、って思ってしまう時がしばしばある。
それは今の部署に長くいることがあるからだろうけれど、それだけじゃなくて、傲慢なんだとも思う。

バンドをやっていたり、創作をやっていたりしていても、自分が複数人いればとか思ってしまうこともある。
でも、なんで他人をあまり信用できないんだろうね。
今の思い付きで、多分だけど、自分が言っていることがあまり通じていないというか、伝わってないな、理解されていないな、って感じてしまうと、その人を信用できなくなってしまう気がする。
でもでも、これもまた、自分の思い込みなんじゃないかって。
うん、そうだね、これは思い込み。
思っていることが伝わらないのは、相手のせいなのか、それとも、自分の伝え方のせいなのか。
それとも、そもそも伝えようと思っているのか。
そもそもそもそも、思ったことを言葉にすらしていないのかもしれないと。

信、っていう漢字。
にんべんと言の組み合わせでできているね。
人の言がなければ、信じるもないんじゃないのかなって。

仕事をするうえで、自分は心配性だと思う。
自分が休みの入る前、同僚、というか、上司に、あれをどうする、これをどうする、って確認を何個もしてしまう。
そんなある時、上司から言われた。
「大丈夫だよ、やっておくから。できるから」
人をあまり信用していない自分が見透かされた気がした。
見透かされたと同時に、自分があまり信用していないんだということも思い知らされた。
周りの同僚を信用していれば、こんなに何個も確認しておくことなんてなくて、自分がそれをわざわざ言わなくてもいいんだけれど、やるべきことがこれから済まされるかどうかが心配になってしまうのだ。
思えば、こういったやり取りは何度かあった。
ある時に言われて、こうした自分に気付いてからは、意識的に上司の言葉を信じるようにして、周りに任せることにした。

自分が思っていることが伝わらないとか、理解されないとか、これは、信じられていないということ、受身形のもの。
思い込みなんだろうけどね。
そうやって作り出した、信じられていない、という被害妄想で、自分が他人を信用しないというのは、ナンセンスだなあ、って。
愛されないから、他人を愛さないとか、何か贈り物をされないから、贈り物をしないとか。
報われたいと思っているわけではないと、自分ながらに思っているはずなんだけど。

令和4年7月8日。
日本において、凄惨な事件が起きた。
全容はまだわかっていないので、事実にもとづかない憶測を書くわけにはいかないと強く思っている。
という前提で、それでも、憶測の中で出てきた話として、加害者にまつわる話に、この「信じる」という言葉がキーワードになっているような気がしていて。
誰かが信じていたことを信じられないということ。
そのことによって、その人自身を信じられないかもしれないということ。
自分にとっての正義とか悪が何なのかということ。
そして、自分が信じていることを形にしてしまうということ。

人をあまり信用していない自分がそれでも信じられる人がいる。
それは家族である。
その理由は、無償の愛を注いでくれたから。
無論、家族関係というのは、必ずしも万人が円満で、信じているわけではない、きれいごとばかりではないということも知っている。
それでも、自分は、この自分は、家族を信じている。
先日、「徳ってなんだろね」って記事でも書いたこと。
家族は「自己犠牲」によって、過去から今までの自分をつくってくれた。
親への恩返し、っていうけれど、その恩ってのも見えないものであって、信じることと繋がっている気がする。

そうだ、信じるってことを別の言葉で置き換えれば、「恩返ししたい人がいますか」って言えるのかなって。

信じるとは何か、ってのは難しい話だけれど、でも、「信じている人はいますか?」っていう質問から、「信じるってなんだろね」ってことが見えてくるかもね。
少なくとも、仕事場ではもっと周りを信じていこうと、上司の言葉から思い知らされた話でした。そのことが、きっと、自分が周りから信じてもらえることにも繋がるだろうから。


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