「どうしようもなさ」を理解してみませんか?の話。

雷が怖すぎて、今年もついに胃を壊してしまった。
朝から食事がろくに取れず腹痛に倒れている。
子供の頃から毎年夏は胃腸の調子が良い日が少ない。
雷という逃れられない巨大なストレスに晒されているのだから当然と言えば当然だ。

たまに、「大きな音がダメなのにライブに行くの?」と鬼の首を取ったように私に言う人もいる。
矛盾を見つけて悦に浸りたいのかもしれないだけかもしれないけど。(あ、毒を吐いてしまった)


私はライブの時も常にお守りとして耳栓を持っている。
モルデックス社のかなり遮音性の高いものだ。
使用するかどうかは、その日の体調やライブ会場の音響設備やスピーカーと座席の近さなどの環境で決める。
なので、大丈夫な時もあるし装着していないと厳しいと思うこともある。
これに関しては本当にその日になってみないと分からず、まちまちだ。



苦手な音にも色々ある。
雷や打ち上げ花火のように破裂音がダメだとか。
キンキンする高音がダメだとか。
逆に体に響くような重低音がダメだとか。
もしダメだったとしても例えば推しのライブでなら好意的な人物を目にすることで心理的に余裕が生まれ、耐えられる伸びしろが出来る人もいる。
私は割とそのタイプである。
それでもやはり破裂音は怖いと思うし、高音が耳に鋭く突き刺さる。
具体的に説明するのは難しいが、耳から頭の中までアイスピックのような鋭利なものが刺さるような感覚になる。

『聴覚過敏』と言っても一概にみんなが一緒では無く、人と時と場合(環境)によることも多々ある。
「あれは大丈夫なのに、これはダメはワガママ」と決めつけるのは私はあまりにも短絡的な考え方だと思う。



Xを見ていると、「雷恐怖症を告白して笑われた」というのを見掛ける。
私は人の苦手を笑う人の気持ちだけは分かる気がしない。
わかっているとは思うが、相手は自分と同じ感覚の持ち主では無い。
同じ人間という種族なだけで存在としては赤の他人、別の生き物である。
私は私、貴方は貴方なのだ。

だから、自分は平気でも相手にとってはとてつもない苦痛だったりその逆だって当たり前にある。
こんな当たり前が分からない大人がそこそこいるのが、私にはなかなか理解し難い。
他人の痛みが完全に分からなくても、「この人はこれか嫌なんだな」と理解しようとすることは誰でも出来ることだと思っている。


苦手なものの話のついでに、もう1つ私がダメだけどあまり理解されない恐怖症の話をしたい。
私は他人が傷つく瞬間を見るのが耐えられない。
具体的に言うと、刃物や武器などで人が傷つき流血するような瞬間を見られないのだ。

これも物心ついた時からそうで、未だに大河ドラマの戦のシーンや戦争映画などは全くダメ。
ホラー映画でも亡くなり方がグロテスクなものやゾンビものは全てNGである。


実体験として、学生の頃にとある授業で『プライベート・ライアン』を見たことがあるのだが、下を向いて耳を塞いでいても力が入らなくなってしまい。
結局、一時保健室で休むことになってしまった苦い過去がある。
ちなみに痛い話を聞くだけでもダメで、聞いているうちにその人がケガした部分がジリジリ焼け付くように痛み出す。
この能力、世が世なら私はシャーマンとして活躍していたかもしれない。

辛うじて医療ドラマは『ドクターX』でだいぶ見慣れた。
このドラマはまずキャストの良さとストーリーの面白さでかなり緩和されているし、手術シーンも比較的サクサク進むので流血も体感では少なく。
過敏な人でも見やすいのでは無いかと思う。
まぁ、そういうのが苦手な人がそもそも見たいと思うか分からないけど。



私は他人のどうしようもなさを理解できる人間でありたい。
例えば私は動物のほとんどが大好きだけど、世の中には犬や猫が苦手な人もいるだろう。
その苦手には何かしら痛い思いをしたとか吠えられて驚いたとかあるのだと思う。
その、自分ではどうしようもないトラウマや恐怖症を私は出来る限り理解したい。
その人にとって、人生に植え付けられるくらい嫌だったり怖かったりしたのだからそれを笑うなんていくら自分は平気だったとしても私にはできない。
「そんなのおかしい」ではなく、まずは「そうなんだ」と思える人でいられるように生きていきたいなぁと思う。

それから、怖いものを言うと「大人なのに」という人もいるだろう。
怖いものがあるのは子供だけという発想も私にはいまいち分からない。
子供の延長線上に大人があるのであって、中には時間の経過で克服出来るものもあるかもしれないが出来ないものがあっても何らおかしい話ではないと思う。
だって、成長しただけで人間としては別に変わっているわけではないのだから。


どうかそんなふうに、どう頑張ってもどうしてもこれだけは無理!という『他人のどうしようもなさ』に対する理解が進んで生きやすい人が一人でも増えて行く世の中になって欲しいと願ってやまない。(了)

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