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トワイライト①

プロローグ

 ここはBARトワイライト。混沌の坩堝渋谷を松濤方面に歩いて15分、喧騒を離れた場所にある知る人ぞ知る会員制のバーである。入会条件は2つ。

①誰かの紹介である事
②人生に悩みを抱えている事

 この店は変わった営業時間をしていて『日の入り前〜日の出後』までとなっている。営業時間に合わせて店名が『トワイライト』なのか、店名が『トワイライト』だからこの営業時間に決まったのか、それはわからない。

 バーの内装はオーセンティックで一般的な物。ドアを開けると森林のような香りのアロマが炊かれている。照明は少し暗めか。入り口のドアを開けても奥のカウンターに人がいるかいないか見えないほどに暗い。ただ所々に橙色の優しい照明があり、薄明りとも言えるその明るさが絶妙で、決して陰鬱な雰囲気にはなっていない。これも店名を意識しているのであろう。カーペットはくすんだ藍色。壁はモスグリーンの落ち着いた色。カウンターは真鍮と石で出来た特注品のようで、このバーのそれなりの格式の高さを象徴していた。

 店内には聞こえるか聞こえないかの音でジャズがかかっていたが、聞いた事のない曲ばかり。有名な曲は敢えて流さないようなスタイルのようだ。働いているのはマスター1人。カウンター席8席の狭い空間。絵やダーツなど余計な物は一切無く、お酒と会話を楽しむための空間であり、それ以外に向かないのは明らかだった。

 マスターの名前はオトハタケル。老けた20代にも、若い40代にも、年相応の30代にも見える不思議な雰囲気の中肉中背の男性。顔は整っていて宝塚の男役のような印象もある。いつも微笑みを絶やさず、聖者と言っても過言ではないような全てを受け入れる雰囲気を持っている。マスターは誰に聞かれても過去を教えてくれない。いや、教えてはくれるのだが答えはいつも統一されている。
「生まれて、歌って、恋をして、ここに立ってる。それだけじゃあ、いけませんか?」
微笑みでこう言われるとさらに先までは突っ込みにくい。誰か突っ込んだ事を聞けば、
「人の生まれや終わった恋はむやみやたらに他人に聞くもんじゃないですよ?歌については私が歌うと迷惑をかける人がいるのです。だから言えません。」
と言われてしまう。これではそれ以上は聞けない。歌うと迷惑がかかる?誰の事なのだろう?その終わった恋の相手と関係があるのだろうか。謎めいたマスターと不思議な入会条件、営業時間でこのバーは有名になりそうなものだったが、インターネットでも宣伝されず、どこか『秘密にしておいて誰にも教えたくない』要素があるせいか意外なほどにいつも空いていてゆっくりとした時間が流れているのだった。

「いらっしゃい。今夜はどうしました?」
カウンター席に座るといつもマスターは必ずこう切り出しておしぼりとお通しを出してくれる。普通は『何にします?』とか『お飲み物は?』とかだろう。この時点で早くもこのバーは普通ではないとわかる。『うまくいかない事があってね』『寂しくてさ』『悲しくて仕方がないの』など色んな返し方をする人がいるが、マスターはその後必ず
「お聞きしますか?」
と聞いてくれる。この『お聞きしますか?』が悩める人の背中を押したり、安心させたりして、人はその悩みをマスターに話す。マスターは絶妙な相槌と、適切な質問で話を促し、気づけば悩みを夢中で話している。ふとすぐ脇に出されたお酒に気づくとマスターはにっこりと微笑んで言う。
「今のご事情に合ったお酒です。どうぞ。」
一口飲むと何のお酒か教えてくれて、
「ここのお酒は全て1杯1,000円です。貴方がお話している間、お酒が空になったらまた出します。全てお話が終えたらお酒は止まります。」
そう言ってまたマスターはにっこりと笑う。

 僕は妻の友人に紹介されこのバーを知り、それ以来何年かに1度訪れては、少し話し込み、敢えて悩みを全て打ち明けず『また来るよ』と言って途中で帰るスタンスを続けている。

 今日は久しぶりにまたそのバーへ向かっている。古いオフィスビルの裏手の路地から入った、初めて行く人間が100%見つける事が出来ない古ぼけた『Twilihgt』と書かれたドアを、まさに僕はこれから開けようとしている。この扉を開ければまたあのやさしくて柔らかな癒しの時間が流れる。次にこの扉を開けて出ていく時には、きっと心晴れやかに明日への活力を貰えている。この絶望の連続で瀕死の心もまた少し生きながらえる事が出来るだろう。そう思って僕はそっと思い扉に手をかけた。

 まさかこれが僕がこのバーを訪れる最期の機会になるとも知らずに。

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